2月21日

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少し間が空いてしまいました。この日は北海道で大きな地震がありましたが、僕の地元は大丈夫でしたかね。

2018年9月の北海道胆振東部地震のとき、僕はまさに札幌にいて、しかもそれが非常に重要な任務と重なってしまい、大変な目に遭いました。多少面白い話なのでいずれ記事にはしますが、絶対長くなるしいまだにその時のショックは癒えていないので、当分先になるでしょう。辛かったですが、まあしかし命があるだけめっけもんです。

 

 

さて木曜日、これが冬休み前最後の授業です。前の日記で書いたとおり逃げずに課題に立ち向かったのですが、それでもなかなか難しくて結局2時間ほどしか眠れませんでした。このブログを始めたときからそれは良くないとわかってるはずなのに繰り返す、人間は愚かですねー。(許されない主語拡大)

さて先週行った試験なのですが、返却もされないし点数も教えてくれませんでした。焦らされるのは嫌いじゃないけどやめーや。まあしかしあのときの記事で書いた作曲者と年代当てクイズはほぼ全員が間違っていたみたいですね、そりゃそうだ。マニアックすぎる。

そのほかに作品を聴いて構造を分析したり比較したりする記述問題もあって、僕にはそもそもフランス語で記述すること自体に問題があるわけで非常に苦しいところなのですが、先生曰く「分析の記述は大変だっただろうけど、了三なんかは頑張って書いてたね」とのこと。よく書けてるとは言ってない。もういいんだ、心の準備はできてるのでどんな結果だろうと構わないですよ。

 

それはさておき、今回の課題を披露したときのやりとり。

先生「うん、よくできてるよ。モンタージュも効果的だ。ただ君の傾向として、盛り上げようとするときにまくしたてることが多いね。人に話すときに一気にべらべらべらーっと喋る感じ」
僕『ああー… そう、ですね』
「日本ではちゃきちゃき動いてなかったり、時間に隙間ができたりするとストレスを感じるのかもしれないが、フランスは落ち着いてるから。日本よりストレスが少ないんだ」
『え〜そうですか〜? 日本はこっちみたいな過激なデモはありませんよ』
一同「笑」
「それは確かに君の言う通りだ。笑 ちょっと複雑なんだ、あれはなんていうか別種の… 特殊な枠組みの中にある存在だから、一般的なものとは違う」

果たしてそれを別扱いしていいのかどうか歴史的に見ても疑問が残るところではありますが、日本にも同じようなものはあるっちゃありますもんね。沖縄のアレとか。

 

「要するに、人と話すときでも既にわかってることを繰り返し言っても意味がないし、それによって別の意味が生まれてしまうこともある。詰め込みすぎるより、隙間を作っておいたほうが豊かに感じるものだ」

 

「いつも君たちに言ってることではあるけど、音楽は聴く人の存在をまず第一に考えなくてはいけない。自分の言いたいこと、あるいは自分自身を他人に伝える力、それこそが技能だ。音楽をするということは、聴いてる人に時間を預ける行為と言える。書法を評価する時間、そこで何が行われているのかを理解する時間、作っている人の意図を読み解こうとするゲームのような時間。その時間の中で人の知覚がどう作用するのか、それを理解するための訓練として、今こうしてお互いの作ったものを評価し合うのが大事なんだ。知覚と言っても必ずしも聴覚だけとは限らない。もっと一般的な知覚… 音によって人は色んな知覚を反応させ得る。視覚、触覚、そして鳴っている音ではない、自分の中に眠っている音を喚起することができる。表面的な音の刺激よりも、そうしたものの方が多くのことを語りかけてくる」

 

「音楽は他人に、何であれ何かを訴えかけるものだ。人間は結局皆似ている。普遍的な反応とはどういうものかを捕まえることが大事だ。喝采をもらうためではなく、自分の意図を正確に実現させるために」

 

 

この日は写真を撮り忘れたので、これはこの前のコンサートのときにラジオフランスから帰るときに撮ったやつです。

疲労困憊でしたが、いろんな収穫があって良かったです。しかし案の定「ふゆやすみのしゅくだい」を大量に用意してくれました。最終日に泣きわめくことがないようにしたいものですね。