【凪あす10周年企画②】完璧な出来の第1話を味わい尽くす

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前回に引き続き『凪のあすから』特集です。

【凪あす10周年企画①】配信の案内と、作品の魅力について
明けましておめでとうございます。昨年はたった3本しか記事がなく、ほとんど死に体となってしまった当ブログですが、今年は最低月1本くらいは更新していきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。さて挨拶もそこそこに本題へ参りますが、遡る...

 

インフィニットのチャンネルで凪あす全話が一挙公開されてから4日ほど経ちましたが、今のところ再生数は11万を超えたところですね。僕としては桁が2つ足りねえだろって感じですが、コメント欄には、

自分の中でこれを超える作品はない
こんなに大好きな作品は他にない
小学生の頃見ても感動してたのに大人になって見たらもっと感動した」など、

熱い思いが数多く綴られていて、僕はとても嬉しく思いました。

 

一方で、

「前半が退屈だったけど後半からすごく面白かった」
「1クール目を我慢して見続けてよかった」

という意見もちらほら見かけます。実際凪あすを最後まで見た人の感想で似たようなものを、これまで僕は結構見てきました。もちろん感想なんて人それぞれなので全然それでいいと思いますが、僕の強い意見を言わせてもらうならば、そういう感想を持つ人はまだまだこのアニメを味わい尽くせていません

これまで当ブログでアニメを語る時に毎度言ってきたことですが、シリーズアニメの名作ってのは第1話から名作なんです。理由は簡単で、第1話は監督自身がコンテを切ることが多いですし、仮に他に演出家を立てたとしても、(作画含む制作カロリーやシナリオの盛り上がりは別にして)第1話をシリーズの中で最高の完成度にするという意志と実力がなければ、つまりそれほど第1話の重要性を認識できていないのであれば、シリーズ後半をいくら頑張ったところで名作になんてなりえないからです。

 

そして『凪のあすから』でもそれはまったく例外ではありません。第1話がすさまじく面白いし完成度が高い。それだけじゃなく、オリジナルアニメ全26話を支える土台としての役割を完璧にこなしている点が本当に驚異的です。

 

というわけでここから凪あす第1話を詳細に見ていきますが、必ず本編を見てから以下をご覧になってください。もちろんシリーズ全体に関わるネタバレは一切ありませんが、映像としての完成度はいくら言葉を重ねても表現できるものではありませんので、まずはじっくり本編を見てください。

今はインフィニットのチャンネルで無料公開されていますが、この記事を読んでいる人の大半にとっては公開が終わっているので、PrimeVideoや、dアニメストアniconicoなどの配信サービスからご覧ください。ニコニコは第1話のみ無料、Primeは会員であれば第1話は無料公開されています。

 

ではいきましょう。まず1カット目からもう重要です。

 

 

料理をしている少年のケツの画で、左からが入ってきます。開始5秒で「ん!?」となるわけですね。「もしかしてこれって水中なの?」と思わせたところで2カット目でカゴに入った火の玉が出てきて、3カット目でその火を使って鍋物を温めます。4カット目でご丁寧に鍋のアップが描かれます。

 

 

このまったく無駄のない4カット16秒で、『凪のあすから』のアニメとしてのレベルデザイン(リアリティレベル)を示しています。

例えば、今の私たちには「魔法少女モノ」という概念が浸透しきっているので、魔法少女アニメで突然マスコットキャラが喋り出してもなんら驚くことはありません。「そういうもの」だと認識できるからです。しかし恋愛モノやスポーツモノとして入ったアニメでいきなり喋るマスコットが登場したら、「え、ああそっち系なの?」と認識のスイッチを切り替える必要が出てきてしまいます。これがレベルデザインというもので、実写よりも容易に現実離れしやすいアニメの方がこのレベル設定に気を遣う必要があります。『名探偵コナン』で人が死んでも視聴者がいちいち驚かないのは、ちゃんとこのレベルデザインの認識ができているからです。米花町なら仕方ないってね。

 

話を戻して、ここで前回の記事世界観設定を思い出してもらいたいのですが、これが監督はじめ首脳陣がたどり着いた答えなんです。「水中での食事ってどうなってんの?」とか、「水中で液体の料理が沸騰してるってどういう理屈?」とか、そういう方向の疑問をもっと追求した設定案だってたくさんあったでしょう。それはそれで一つの作品なんです。しかし『凪あす』が描くべき主体はそこではないということで、ここのレベルデザインは思い切って「そういうもの」で済ませることにしよう、という判断を下したというわけです。それによって、「水中で生活する人間といえども、全く違う存在や生体ではなく、普通の人間とさほど変わらない」ということを冒頭のごくわずかな時間で効果的に示したのです。

 

とにかく、ここまでの段階で「まああんまり細けえことはいいから、続きを見てくだせえよ」と手引きがなされたところで、この後テレビに映る塩分濃度の予報や、家の外に出た後の主人公・の動き方などを見ながら、今度は「水中の生活ならではの要素」に自然と目が向けられるようになっています。そこでPAならではの背景美術の美しさをドーンと見せつけるのが実に巧妙ですね。

 

 

この後、光以外のメインキャラが初登場し、ヒロインまなかとの初めての会話シーンになります。

 

 

この二人の距離感が重要ですねえ。ここの段階では光はこれくらい、いわば無神経にまなかに詰め寄ることが出来てたんです。この一連のシークエンスで、光のキャラクター、まなかのキャラクター、そして二人の関係性と、3つを同時に描いています。

 

 

一人取り残されたまなかのカットの前にこの汐鹿生(しおししお)のバス停が描かれます。この丸みあるポップでかわいらしいフォント、そして塗装のハゲ具合。これこそが凪あす! という、美術の一番の特徴です。お店の看板や電車の塗装など、どちらかというと未来感のあるデザインで溢れている舞台なのですが、そのどれもが色落ちしていたり錆びていたり、経年劣化しています。この「ファンタジー感と現実感の狭間にある閉ざされた世界」は、そのまま凪あすの物語の性質と一致しますよね。夢溢れる水中世界のキラキラ感、しかしそこの人々の有様は現実の生々しさや閉鎖的な陰湿さがこびりついている、それをそのまま体現したような見事な美術設計です。

 

この後でまなかが釣り上げられますが、脚本面の話をすると、書くときは普通なら逆算して考えていくわけですよね。つまり、

まなかが釣られる瞬間を、光は地上から眺めていないといけない

光たちが先に地上へ行って、まなかが水中に一人で残っていないといけない

まなかだけが違う制服を着てきて、それを着替えるので一人遅れることになる

と、こういう順番で脚本を組み立てたのだろうと想像されるわけですが、まったく計算を感じさせない、実に自然な流れですよね。しかも自然なだけじゃないんです。ここからわかるのは、光の「(転校先の制服じゃなく、元の学校である)波中の制服を着ていこうぜ」という提案を、ちさきは受け入れ、まなかは拒否したのです

まなかのセリフ、「そういう異分子っぽいのって、反感買っちゃうかもしれないよ?」というのは、ちさきだって考えたはずなんです。しかし、二人の出した結論は違った。この後の話数でちさきが「まなかと自分の違い」で思い悩む場面が多く描かれますが、実はこんな冒頭で既にその違いが描写されていたのです。すごくないですか? どうやったらこんな完璧な脚本を書けるんでしょうね。

 

 

そしてこの、『凪のあすから』を象徴するカットへ。ここでちゃんと作画カロリーを使って、紡目線の揺れるまなかと、まなか目線の紡の難しい立体作画をこなしています。一度見たら絶対に忘れないカットを、ちゃんとこの山場に持ってくる。その後の光のセリフ、

「俺は見てしまったんだ。誰かが誰かと、特別な出逢いをした、その瞬間を」

からやっとオープニングですよ。つまりここまではまだ4分弱のアバンなんですが、いやちょっと完璧すぎませんか? ものすごい密度の情報が詰め込まれているのに、それが詰めすぎ感なく、すんなりと入ってくるんです。癖なのか、ついつい僕は考えてしまうんですよね。「凪あすの企画が固まった後で、このアバンの脚本が書けるのか」とか、「アバンまでの脚本を元に、このレベルのコンテが切れるのか」とか。僕は100年経っても出来るようになれる気がしません。それくらい、隙のない芸術品のような仕上がりだと思っています。

 

さて、さすがにこのペースだと第1話だけでも全然終わりが見えないので、ここからは飛ばしながら、語りたいところをピックアップしていきます。