「頭が良い人」を一言で表すなら?【ニーバーの祈りと首領への道】

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少し前の話になりますが、ニコニコで『世界の奇書をゆっくり解説』という動画シリーズの最新作がアップされていたので、見たんですね。

作者の三崎律日は2017年からこのシリーズの制作を始めて、僕の記憶では第1回の全く知られていない頃からすでにニコニコでは再生数が多く、それなりに話題になっていました。おしゃれな動画編集とレトリックの巧みさで、ニコニコとはあまり相性の良くない知的教養系の動画であるにも関わらず回を重ねるごとに人気が出て、ついには本の出版にまで至るというのは本当にすごいことだと思います。今回のこの記事の本筋とはズレてしまいますが、一度見てみることをオススメします(ただ動画時間がかなり長いので暇なときにどうぞ)。

 

 

で、この最新作「ベティ・クロッカーのお料理ブック」の結びの部分で、「ニーバーの祈り」が紹介されていたんですね。これは1892年生まれのアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーが教会での説教で唱えていた詩のようなもので、その原型となるものは遥か昔から存在していたようですが、今広く知られている原文はニーバーの作によるもの、だそうです。結構有名みたいなのですが、恥ずかしながら僕は全く知りませんでした。

動画の中で紹介されている日本語訳はWikipediaのものと全く同じで、それの冒頭部分をここに載せます。

 

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

 

動画の中でこれが出てきたとき、僕はまったくの初見でしたから、「うわー」と口に出しながら動画を一時停止し、しばらく感動に浸っていました。こんな短い言葉の中に、なんという人生の真理が含まれているのだろうかと、嘆息せずにはいられません。

特に最後の「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」という表現。これこそが「頭が良い人」の定義にふさわしいのではないか、というのが今回の本筋です。

 

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みなさんにとって、頭が良い人ってどういうものですか?

という本来記事の冒頭に置かれるべき文句を今更ながら載せてみたわけですが、僕にとってこの問いというのはもうお友達みたいなもので、高校生のときからずーっと考え続けてることなんですね。暇な人やねえ。でもまあそれだけ長いこと考えていればそれなりにまとまってくるもんで、大学生の頃には友達や先生によくこの話をしていました。

僕が定義する「頭の良さ」は「未来を読む力」と「誠実さ」の二軸です。

 

未来を読む力については大方異論はないかなと思われます。過去を分析し、現状を分析し、およそどんな分野においても通じるような「物事や人間社会の進んでいく方向性」に対する感性が身についてくると、それを自分の専門分野の知見や能力と融合させて「未来を読み」、他者より先駆けて行動を起こすことで実際に成功を収めている人たちは確かにいます。それは「頭が良い」と形容するにふさわしいでしょう。

誤解のないように言っておきますが、いわゆる世の「成功者」がみんな未来を読む力がある人という意味ではありません。むしろそんな能力とは無縁の人の方が圧倒的に多いでしょう。社会的成功・学問的成功・芸術的成功と「未来を読む力」は、まったくとは言いませんがほとんど関係ありません。それでもその能力は重要であると僕は考えていますが。

 

問題は二つ目の「誠実さ」でしょう。「頭が良いとは誠実さのことである」という主張を、少なくとも僕は聞いたことがありません。でもそうなんじゃないかなあと、日々生きてて思うんですよね。

(関係を持ち認知している人や、その集合であるコミュニティ)やモノ(作品、製品、サービス、生き物など幅広く含む)に対して、「誠実であろう」と心に決めていざ実践しようとする人は、例外なくその困難さにぶつかるはずです。単純に障害が多い(なんてくだらないんだと思いつつも厄介な障害で我々の社会は出来ている)場合もありますし、仮に障害が少なかったとしても実践するのは肉体的・精神的に大変ですし疲れますし、なにより「そもそも今の自分の立場における誠実さってなんなんだ」と考え続けなければいけないからです。

誰かが答えを教えてくれることもなく、自分の実践を自分で検証し、「一旦たどり着いた正解」を日々修正し改良し、時には一から再構築しなければいけません。これが出来る人は頭が良いというより「偉大な人」と形容すべきかもしれませんが、そのために必要な能力は、やはり「頭が良い」と形容すべきなんじゃないかなと僕は思うわけです。(ここらへんの考え方は陽明学における「知行合一」に影響を受けています。)

 

どうでしょうか。

「うーん、なんだかよくわかんないな」
「へえ〜なるほどねえ〜」

まあいろんなリアクションがあると思いますが、「うわーすげえなー!」と膝を打つリアクションってほとんどないと思うんですよね。

というのは、「頭が良いとは未来を読む力と誠実さの二軸である」という考え自体はオリジナリティがあって悪くないなと我ながら思うんですが、同時にパンチに欠けると言いますか、スッと伝わらないんですよね。飲み会とかで長々説明させてもらえるならいいんですが、やっぱり一言でズバっと表現できた方がクールだよなあとはずっと思っていたんです。

 

で、数ヶ月前に家の雪かきをしながらそんなことを考えていたんです。高校生の頃も登下校の自転車を漕ぎながら考えていましたし、やはり思索は身体を動かすのが大事なんでしょうね。雪かきの最中にふっと閃いたんですよ。「ああこれなら一言で頭の良さを表現できるかもしれない」って。それが、

頭が良い人とは、原則と例外を正しく区別できる人間である。

という定義です。

 

今世界中に溢れている問題の数々は、結局のところここに行き着くのでは? と思うんです。男女差別や性的マイノリティ差別、それにまつわるポリコレの数々、環境保護とエネルギー、移民、防衛、少子化対策、などなどなど。少なくとも今挙げたものは僕からすれば原則と例外を履き違えているが故にこじれている問題です。

「原則がこうなのだから例外が存在するのはおかしい」
「例外があるんだったら原則自体に意味がない」

断言できますがこれは頭の悪い結論です。しかし世の議論がアホな結論に至ることのなんと多いことか。ラテン語に「例外の存在が規則の妥当性を証明する “exceptio probat regulam” 」という諺がある通り、原則と例外は互いが互いを補強し合う関係にあるのです。

 

「多くの場合に通用する原則があって、そこから漏れ出る例外がある」

これが真理であり、また同時に原則でもあります。つまり、これが入れ子になってるわけです。そしてもう一つ大事なのが、「原則が通用する割合の方が多くなければならない」ことです。原則が通用しない状況が半分を超えるなら、それは原則を見直すべきなのです。

我々は人間原則から逃れられないにも関わらず、どうにも自分は例外側だと認知したくなる傾向があります。これは良くない結果を招くことが多いので、慎重に判断をしなくてはいけません。多くの場合に当てはまる原則の有用性を活かしながら、例外の存在を見極め、その対処法の実践と検証ができる人を、「頭が良い」と形容してもいいのではないでしょうか。

 

……みたいなことを日々考えていたところへ、「ニーバーの祈り」が僕の前にやってきたので、「こーれはかなり近いことを言ってるのでは!?」となって今回の記事を書くに至ったわけです。ようやく全てが繋がりましたね、長い旅でした。もちろんニーバー本人にとってのあの文句が意味するところは違うものでしょう。ただ、それほど遠くもないのではないかな、と僕は思っている次第です。

 

先述したように「頭が良いってなんだろう問題」は僕の幼馴染みたいなものなので、今後もこれについて考え続けるでしょうから、また新たな知見が生まれたら発表できたらなと思っています。

 

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ここから先は余談のコーナーです。冒頭の動画内では、ニーバーの祈りと共に、同じくニーバーの「神によって植えられた場所で咲きなさい」という言葉も紹介しています。これもまた僕の胸を打つんですよねえ。この言葉を聞いて真っ先に思い出すのは『首領への道』です。

 

 

『首領への道』は1998年から始まった清水健太郎白竜主演のVシネ任侠作品で、当時から人気があり劇場版まで制作されていましたが、それとは関係なく様々な要因が重なってかつてのニコニコ動画で非常に人気が高かった作品です。(詳細はめんどくさいので省略)

冒頭の概略だけ簡単に説明しますと、しみけん演じる桜井の所属する島田組と白竜演じる越智の所属する白虎会は対立関係にあり、それが激化していよいよ全面戦争になるかというところで、桜井が奇策として白虎会の本部に単身乗り込み、白虎会組長に引退を迫り、代わりに自分の首を差し出すことで手打ちにすることを提案。組長はその覚悟を認め引退と手打ちを受け入れたが、その条件として白虎会若頭である越智を桜井の弟分にしろという。困惑しつつもその条件を飲んだ桜井は正式に越智を弟分として迎えるわけですが、その初日に桜井は越智を行きつけのバーへ連れて行きます。

 

 

桜井「越智。お前ワシの舎弟になって、迷惑しとるんちゃうか」
越智「そんなことありまへんがな」
桜井「ここは無礼講や。本音聞かせ」

 

 

 

越智「持った縁に従い、自分の分を全うするのが、わしの道だす」

 

初見でこのシーンを見たとき、白竜の演技も相まって、めちゃくちゃ痺れたんですよね。「持った縁に従い、自分の分を全うする」結局生きるってこういうことよな、と今でも思います。なのでこれは僕の座右の銘です。大企業の就職面接で「座右の銘はなんですか?」と訊かれたとしても、嘘はつけませんので、「首領への道の白竜のこのセリフです」と答えるでしょう。まあ就活なんてしたことないんですけど。

 

話がまた遠回りしましたが、これこそニーバーの「置かれた場所で咲け」のバリエーションと言えるでしょう。首領への道には人生の真理が詰まっています。いや今自分で調べててびっくりしたんですが、なんとPrimeVideoで首領への道が見れるんですよ。これは面白いので、ヤクザモノに抵抗がなければ是非見てほしいですね。ケレン味たっぷりのレイアウトとカメラワーク、非常に演技力のある役者と大根役者の落差、Vシネ特有の満載のツッコミどころなど、魅力がたっぷり詰まった作品です。

 

最後に軽く自分語りをして締めますが、実は少し前から僕の生活状況が激変しまして、本当に人生とは何が起こるかわからんもんやなとつくづく思います。しかし結局この状況も、「持った縁に従い、自分の分を全う」しようとした結果なんですよね。いつかこれを笑って話せるように、これからも誠実に生きていこうと思います。