日本時間の2020年5月9日から10日にかけてTwitter上で突如として「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りし、各界の著名人の結構な人数がこのハッシュタグのみをツイートするという珍騒動が起きました。この記事ではその内容にはほとんど触れませんが、こういった騒動はこれからも絶えず起き続けるでしょう。そういったものに対する心構えについてと、そこから話を広げて「物事を評価すること一般について」を語ろうと思います。
これは話の端緒でありいきなり結論でもあるのですが、「ある議論に対して本気で取り組もうとするなら賛成・反対だけで語ることに何の意味もない」という理解がとても重要です。別にこんな当たり前のことは僕なんかが改めて言うまでもないことなのですが、ともすればつい忘れがちになってしまうのも事実です。言い換えると、賛成・反対だけで噴き上がってる連中は本気で取り組む意思・能力がないことの表れであるということです。
なぜ意味がないのか? それは個々人の持つ情報量と情報を扱う能力には差があるからです。
情報量が定量的に扱えるものだとして、それが積み上がっていくときの人間の認識は、単純な極点から極点へのグラデーションではなく、このように両極を行ったり来たりするような形になっているものです。
英語では «Extremes meet.» 、フランス語では «Les extrêmes se touchent.» 、日本語にすると「両極は相通ず」ということわざですが、これは単純に「政治的な最右翼と最左翼は結局共に暴力手段に訴える」という意味だけでなく、人間の認識の発展過程をうまく捉えた表現であると僕は思います。
この図で重要なのは、「情報量1の賛成と、情報量3の賛成は見た目は同じく見えるがその地位や扱いを同等にすべきではない」ということ、そして「情報量が一定数を超えると賛成・反対どちらとも言えなくなる傾向が強い」ということです。
僕はこれを「コインの裏表理論」と呼んでいます。我々が買い物をするときに、レジに出す硬貨の裏表を店員が気にしたりすることがあるでしょうか。店員が常に注意しているのは硬貨そのものの種別・価値であり、裏表がどちらかではありません。賛成・反対は所詮硬貨のウラオモテでしかないということです。その意見が1円の価値なのか100円の価値なのか、そこに目を向けなくてはいけません。
一つ例を挙げましょう。
どうでしょうか。これが情報量が積み重なっていく感覚です。各段階で「悪いのは誰か?」の答えが変わっていますよね。(①太郎 ②花子の父 ③健太 ④花子 ⑤太郎の父)
これは僕が塾講師をやっていたときに中学生相手にしていた例え話で、まあ中学生はこれくらいのスパイスのある例の方が食いつきやすいのでこれを採用していたのですが、何のために話していたのかといえば「歴史を学ぶ上で必要なセンスとは何か」を伝えたかったからです。①だけ見て「太郎が悪い!」と断言するのは小学生でもできることですが、その背景にある②、③、④とどんどん深く事実を探り考察をし、①の結論が本当に正しかったのかどうかを改めて考える、これが歴史を学ぶ意義なのだということです。だから「書かれていることを覚えるだけじゃなく、書かれていることから常に疑問を引き出すようにしなさい、その疑問点を探る力はテストで点数を取るより遥かに将来に役立つよ」と指導していました。
話を戻します。とにかく議論においては各人が前提としている情報量にバラつきがあるということ、そして更に厄介なのは、同じ情報を前提としていてもそれを扱う能力の差によって結論は容易く反転するということです。それがまさしく先ほどの例で、①という情報しか与えられてなくてもそこから②、③、④のような可能性に対する考察を深めていく能力がある人もいれば、①のまま立ち止まっている人もいるということです。
この情報をインフォメーションと呼び、情報を扱う能力をインテリジェンスと呼びます。共に「賢いこと」の象徴とされているこの二つを混同してはいけないというのはもちろん、どうすればインテリジェンスを磨いていくことができるのか、それを考え実践していくことが本当に重要なことだと日々実感するばかりです。
ちなみになぜ「情報量が一定数を超えると賛成・反対どちらとも言えなくなる傾向が強い」のかと言えば、あらゆる物事において0点や100点のような極端な評価がつけられることは滅多にないからです。良い面・悪い面があり、評価すべき点とそうでない点がある。「中庸」の概念が身体に染み付いている人間は、極端な評価が下されそうな瞬間にその妥当性を疑う癖がついているものです。
とりあえず今回の珍騒動の個人的な見解を述べると、著名人がハッシュタグだけでツイートするという行為は気に入らないです。ここまでの流れを読んでもらえばわかるとおり、それを言ったところでその人間の認識がどの段階にあるのかがまったくわからず、ただ影響力だけを徒に振りまく結果にしかないからです。つまり本気でこの問題に取り組む意思がない。そのことを表明して何の得があるんですか?
本気で取り組む意思があるなら、
①この問題に関する自分のインフォメーションとインテリジェンスに自信がある場合、その認識に至る道筋を他の人がわかりやすく辿れるように導いていく
②自信がない場合、現段階での自分の認識を開陳し、それが誤っているのかどうか、足りないものはなにか意見を募る
このどちらかになるはずです。
「普段政治的なツイートを一切していないけど、今回ばかりは重大問題だからツイートした」みたいなのもちらほら見かけますが、右に倣えで今回の件に乗っかるよりも8%になる前から増税反対をつぶやいた方が遥かに多方面に良い影響を与えただろうにと個人的には思います。
教訓として肝に銘じておきたいのは、「議論をするときには賛成・反対の立場だけで相手を推し量るのではなく、どのインフォメーションを基にしてどういうインテリジェンスを駆使してその結論に至ったのかで推し量る」ことが何より重要だということです。残念ながらネット上のほとんどの空間ではこういう健全な議論を進めることが難しいでしょう。けれど実際に人と対面して話したりする機会がある人は、この心構えを忘れないでもらいたいですね。
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さてこの話題をここで終わらせてもいいんですが、もう少し話を大きくしてみましょうか。これは一つの問題を考えるときだけでなく、「作品や人物を評価するとき」でも同じだということです。つまり「好き・嫌い」「良い・悪い」の単純な二分法で考えてる限り、そこから先へは進めません。好き嫌いを何往復もし、良し悪しの判断がつかなくなって迷宮入りをしていく過程を経て、ようやくその対象の深奥に一歩近づける、そういうもんだと僕は思っています。
例えば劇場で一つの映像作品を見るとしましょう。先ほどの議論の例とは違い、同席している人たちが享受する表面的なインフォメーションは基本的には同じはずです。しかしそのインフォメーションを自分の中で整理し統合するのは難しいことです。映像のどこに注目すべきなのか、どこに耳をすませるべきなのか、瞬間的な判断のためには経験と訓練が必要です。これだけでも大変なことなのに、まだここから先に二つの大きな壁があるんです。
一つは潜在的なインフォメーションの存在です。どういうスタッフが作っているのか、この監督の過去作とどういう共通点・相違点があるのか、あるシーンやカットにおけるパロディ・オマージュの元は何か、などです。あるいは更に潜在的なインフォメーションとして制作事情が挙げられます。制作陣の人間関係、予算やスケジュールの都合、企画における条件や制限、などです。この「制作事情と評価の関連」はこれまた非常に複雑な話になるので今回は深掘りしませんが、とにかくこういう潜在的なインフォメーションは映画やアニメに限らずあらゆる創作に確実に存在します。
もう一つはインテリジェンス。「潜在的なインフォメーションを探っていく能力」のことをインテリジェンスと捉えてる人も多いかと思いますが、僕はそれは別物と考えています。「表現の受容におけるインテリジェンス」とは何か。これは高度な芸術上の問題であまりに難しい話ですが、できるだけ短く言語化するために、現在の僕の考えを形成するに至った一つの文献を引用しましょう。……は僕自身による省略、太字は本文では傍点になっている箇所です。
生産的な分析とは、最も鷹揚な場合、誤った分析であり、それは、作品の中に一般的な真実ではなく、特殊で一時的な真実を見出し、自分自身の想像力を、分析された作曲家の想像力に接ぎ木させるのである。そうした分析的な出会い、そうした突然の爆発だけが、いかに主観的であろうとも、創造的なのだ。(ブーレーズ著・笠羽映子訳『標柱』p.34)
これは作曲家が作曲という行為について語ったものであり、ここでいう「分析」も一般芸術で言うところの「分析」とは意味が多少異なりますが、ここに書かれていることは一般化できるものと僕は思っています。この前半部分(アカデミックなアプローチ)が表面的・潜在的インフォメーションによる分析であり、後半部分(生産的な分析)がインテリジェンスを語ったものだと解釈しています。
つまり、作品受容におけるインテリジェンスとはバイアスのかかった感受である、ということです。ある一つの作品、または作品の中の一部によってもたらされた電撃的な感銘や感動の尻尾を掴んで、その正体を引っ張り出す能力のことをインテリジェンスだと僕は考えています。そしてその能力を本気で高めようと思ったら「アカデミックなアプローチ」から逃れることはできないのだと悟る瞬間が必ずやってきます。その二極間をどうやって渡り歩いて行ったらいいのか、その答えをその人なりに導き出せたとき、やっと真に自立した価値基準を手にすることができるわけです。
バイアスなんていうのはインテリジェンスから最も遠いものだと普通は思うでしょう。「偏りのなさ」こそが知性の証明であると一般的には考えられていますし、他ならぬ僕自身が先ほど中庸という単語を持ち出したわけですからね。しかし表現分野において、のみならずおそらく万事において、それだけでは踏み込めない領域が確実に存在すると僕は考えています。「変態を理解できるのは変態だけ」と言えば少し伝わるでしょうか。まあでも「天才」に置き換えれば普通の文章ですよ。だから難しいんですこの話題は。そりゃあ世の真理なんてそう簡単に掴めるものではないですから当然なんですけども。とりあえずこの考え方を言語化するならば、「真の中庸とは中庸と反中庸の狭間に存在する」という表現になるでしょうかね。ちょっとトートロジーっぽいですけど、そんなに悪い表現ではない気がします。
それはともかく、僕が太字で強調したところでそんな「自立した価値基準」とやらに興味を持ったり憧れたりする人はそう多くはないでしょう。なぜなら表現分野に携わる人間でない限り、日常ではまったく役には立たないからです。しかしその価値基準を追求する人とそうでない人の間には、「創造行為」に対する視点の深さにおいてとてつもない断絶が生まれます。なのでその点に関して両者は永久に相互理解は不可能でしょう。
まとめますと、表現受容には
①表面的インフォメーションの整理・統合
②潜在的インフォメーションの調査・解読
③インテリジェンス、電撃的な分析
の3つの困難があり、これが自分自身による作品評価を難しくしている要因でもあり、他人による作品評価を理解することが難しい要因でもあるということです。ただ、他人が作品を語っているときには、今この3つのうちどれについて語っているのかなという視点を持つと、どんな分野の作品評価でも整理されてわかりやすくなるとは思います。作品評価である限りこの3つから外れることは絶対にありません。もし外れてるものがあるとすれば、それは作品評価に直接関係のないポエムということです。
今回は記事タイトルに「その1」と既につけています。今回の話題だけでも相当ややこしいんですが、これよりも更に発展させた話題があることもまた事実です。「評価すること」は僕の研究テーマにも深く関わっているので、また別の機会に続編を執筆できればと思っています。
今回のサムネイル。日本の硬貨は額面が書かれている方が裏面ですよというおばあちゃんのインフォメーション袋でした。