続・『Fairy gone フェアリーゴーン』はなぜ失敗したのか

スポンサーリンク

 

2019年春期・秋期の2クールで制作されたP.A.WORKSのオリジナルアニメ『Fairy gone フェアリーゴーン』について記事です。第1クールが終わった直後に書いた記事はこちらです。

『Fairy gone フェアリーゴーン』はなぜ失敗したのか
2019年春アニメ『Fairy gone フェアリーゴーン』の前半クールが終わりました。後半は10月の秋クールから再開するようです。 タイトルの通りこの作品は視聴者の反応・評価としても、実際の作品の出来としても失敗したと断言して良いでしょう...

 

この記事が思いの外たくさんの人にご覧頂けたということで、それに応えるべく当初は第2クールの終了直後に続編記事を書くつもりだったのですが、年末年始が忙しかったのと本編が順当につまらなかったのであまり書くこともないだろうと思ってやめたんです。それで今2019年秋アニメの総評を書いている途中なのですが、この作品について書き始めたら案外文量が多くなってしまったので、まあせっかくだから別記事にしようかということになった次第です。

なので今回はそれほど細かい分析をしているわけでもないし、自分の独自の目線だと胸を張れるような内容があるわけでもないので、あまり期待せずにご覧ください。もちろん前回同様完全にネタバレを含んでいますので、もし本編をこれから見る予定のある方はご注意ください。Amazonプライムで見たい方はこちらから

では早速まいりましょう。

 

 

二兎追うものは

 

最初から具体的な話になりますが、第15話のラストで大事なシーンがありました。セルジュがマーリヤに「オズが死んだのはマーリヤのせいではないし、災いの子だからでもない。仲間を守るためだったからだ」と説得しマーリヤの心が氷解するわけですが、最初に見たときは「あ、これがやりたかったの!?」とまず驚きました。

前回の論評の中でマーリヤの主人公としての描き方に問題があると指摘しましたが、実はこの作品における「マーリヤ個人のドラマ」は二つ用意されていたことがここでようやく判明したわけです。一つはもちろん「生き別れた大切な幼馴染を探し出し、彼女の復讐を止めること」ですが、新たなもう一つは「かつて災いの子と呼ばれた自分が新たな居場所を見つけること」です。

 

第10話でビャクレーに引きこもったマーリヤが「あたしどうせ災いの子だから」とウジウジしていたところをフリーがかっこよく「俺を信じろ!」と言って連れ戻したわけですが、僕はこのときに「ああ災い云々というのはここで処理し終わったんだな」とばかり思っていました。なのになんで第2期が始まって最初の方という、実に中途半端なタイミングで再びこれを持ち出してきたのか。そしてその後のエピソードでも「ドロテアメンバーの絆」についての描写が増えていったので、「ああマーリヤのドラマを二つ並行して描くつもりだったのね」とようやく気づきました。が、やり方はお粗末でしたね。

本当はどちらか一つのドラマの方が話は作りやすい、というのは当然です。つまりヴェロニカを探す物語に集中するか、あるいは「災いの子」にもっとフォーカスを当てて、その氷解を描くか。いや、両方描くのだ! と決めたのならそれはそれで大変結構なことだと思いますが、二つともちゃんと描こうと思うと少し難しくなるわけです。まして複数勢力が絡み合った内乱という舞台の中ではなおのこと、です。

 

とりあえず僕にはぱっと二つの案が浮かびます。一つは、

「なし崩しで入った組織(ドロテア)には全く興味がない。ヴェルを探すためだけに最大限利用させてもらうつもりだったので同僚とは深く関わるつもりはなかったが、命がけの現場で仕事をしていくうちに仲間との信頼関係が生まれ、気づいたら自分の居場所ができていた。その喜びをヴェルにも分け与えたい」

というパターンと、もう一つは、

「なし崩しで入った組織ではあるものの、自分で決断した以上ちゃんと仕事がしたい。ところが上手くいかないことや思いがけない事故などが続き、やはり自分が災いの子であることの運命を呪う。しかし仲間たちにとってはマーリヤがすでに大切な存在であることを本人に伝え説得し、彼女の心が氷解する。そして決意新たにヴェルの説得に臨む」

というパターン。

前者の場合は二つのドラマを最初から並行して描くことが明白で、視聴者側にも作品の方向性が伝わりやすいと思います。が、この場合マーリヤのキャラクター造形が本編とかなり違ってくるので、こちらは採用しなかったということでしょう。でも個人的には「ヴェロニカへの一途な思いと裏腹に氷の仮面を被った少女」というマーリヤ像は、実際の本編の宇宙人思考マーリヤより遥かに好感が持てますけどね。これも前回の論評で述べましたが、こういうのは誰にでも真っ先に思い浮かぶ定石みたいなもので、これを採用しなかったということは実際はこれよりも面白い案でなければいけないはずなんです。本来ならば。

 

それで実際どうなのかというと後者のパターンに近いわけですが、前期の全12話でマーリア本人が言うほど「災いポイント」があったわけでもないんですよね。「自分が深く関わるとロクなことにならない」という心情で同僚と距離を置こうとするような描写もありません。しかもなぜ災いの子と呼ばれるようになったのかという過去を一向に描こうとしないので、マーリヤがその単語を口にする度に視聴者との乖離が生まれていったわけです。「またなんか言ってるよコイツ」みたいな感じで。

で、このパターンの問題点はヴェロニカ探しのドラマとは直接結びつかないところです。前者のパターンは「ヴェル第一」のマーリヤ像を描けばいいので彼女の目的や行動原理が明確になりますが、後者の場合はそれが不明瞭になってしまいます。実際の作品でもマーリヤの行動原理が全然伝わらないというのは既に前回の論評で述べたところです。もし多少ともそれを明確にしようと思うなら、第1期のどこかで是非フリーからマーリヤに尋ねてみてほしかったですね。「お前、もしヴェロニカが今すぐお前のもとへ戻ってきたとしたら、この仕事はどうするんだ」って。そのときマーリヤはなんと答えるんでしょうかね。

 

本編の問題点を整理すると、まずマーリヤのドラマを二つ並行して描くのなら、第1期の時点でそれをもっと明確化すべきだったという点。そして「マーリヤの心の氷解」は間違いなく大きな山場なのだから、それをもっと大事に描くべきだったという点。第1期の時点でそれを解決するというのもあったでしょうね。そうすれば第2期からはフリーとマーリヤという二人の関係のさらなる発展にフォーカスを当てられますから。『Fairy gone フェアリーゴーン』の山ほどある問題点のうち、脚本・シリーズ構成面での最大の失敗がここでしょう。

 

るろうにマーリヤ

 

第19話の冒頭でマーリヤから衝撃の発言が飛び出します。

「どんな理由があろうと、私は人を殺さない」

 

初見時で僕は「えええええ!」と声を上げてしまいました。なんじゃその設定。なんでシリーズ終盤に入ろうかというタイミングで、いきなり不殺(ころさず)のマーリヤなんてやり出したんですかね。「その設定、お前の同僚は知ってるのか」とか、「そもそも16歳までマフィアの下で用心棒して、そのあと別のマフィアに潜入して、その間ずっと不殺を続けてたんかい」とか、言いたいことが山ほど出てきます。本当に意味がわかりません。「罪を憎んで人を憎まないマーリヤって素敵!」って、そんなんで好感度が上がるとでも本気で思ってるんですかね。

ここまできたら是非ともスピンオフでマーリヤのマフィア時代を描いてみてもらいたいですね。災いの子の呪いでウジウジ状態で他人への信頼感が持てず、しかも人は絶対に殺さない。それでどうやって生き延びてきたのか気になります。まあ可能性があるとすれば「人外の射撃能力」で切り抜けてきたということでしょうかね。それならそれで第1期でその人外っぷりを描きなさいよという話になるんですけどね。

 

 

色々ある第22話

 

これは第22話終盤のカットですが、マーリヤの作画がかなり良いと思いませんか。この回はアクションシーンも然り、作画品質がシーズン全体の中でも最も良かったと思います。

 

 

この雨に濡れて髪がぺしゃっとなってるカットも良い感じです。何が言いたいかというとキャラデザをこっちの方向に出来なかったのかなということです。これだったらスカしたようなオシャレ感みたいな印象はほとんどなく、むしろ洗練されてスタイリッシュで良いなあと思います。

 

 

左側が第5話、右側が第10話です。先ほどのものと比べてみてどうですか。もちろん好みの問題もありますから、こちらの方が好きだという意見を否定はしません。が、少なくとも僕自身の作画に対する印象はかなり違います。もし方向性を選べるのだとすれば僕は当然第22話の方を選びますし、それを選ばない責任者を僕は信用できません。

それはさておき、まあこういうのも大事な話ではありますが本題ではありません。本題はこの場面そのもの、つまりマーリヤによるヴェロニカとレイドーンの仲裁です。本編の会話は以下の通り。

 

レイドーン「人が人を殺すなら、自ら手を汚すべきだ。それが正しいと信じるなら、返り血を浴びても、うつむかずに……」
ヴェロニカ「くっ……」
マーリヤ「あなたは、自分のしたことを悔いていない?」
レイドーン「そうだ」
マーリヤ「本当に? 嘘ばっかり。ヴェルがあなたの命を狙うのは、これが初めてじゃない。あなたはヴェルを捕まえたけど、釈放した。まだ子供だったから? スーナを焼いて、私たちを皆殺しにしようとした。それが正しいことだと信じるなら、どこまでも非情になれるはずのあなたが、どうして?」
ヴェロニカ「この男はただ、私を哀れんだだけ」
マーリヤ「そうじゃない。後悔、してるからじゃないの?」
レイドーン「……」
マーリヤ「あなたがやったことは、私も許せない。でも、でもあなたは、ヴェルを殺さなかった。だから、私はこうしてヴェルと会えた。そのことには、感謝してる」
レイドーン「感謝、してるだと……私に」

 

人間が自分の手に負えない強大すぎる力、すなわち妖精憑きの力を二度と手にしないように、レイドーンは自身の故郷でもあるスーナの森を焼いた。人間が殺し合いをしたいのなら、妖精の力など借りずに自分たちの手を汚せばいい、という信念のもとに。しかし「ヴェルを殺さないでくれてありがとう」というマーリヤの言葉に虚を突かれて、自身の行いを悔い始め、ついに「許されなくていい、心から詫びたい。本当にすまなかった……」と懺悔をしました。

 

……いやちょっとレイドーンの信念弱すぎませんかね。故郷の人を皆殺しにするというとんでもない大決断をしたんですよね。自分が地位と権力を手に入れて大局的な観点で世界を眺めることが出来るようになって、そのときに妖精という存在を抹殺した方が将来的には人間社会のためになると判断したからそう決断したわけですよね。何もかも覚悟しないと到底できないようなことを為した御仁が、マーリヤのその程度の言葉で改心するんですか? あまりにバカバカしいというか、レイドーンというキャラクターをえらく矮小化しましたね。ここまで長い時間をかけて大物っぽく描いてきたのがたったこれだけで台無しですよ。

 

そしてヴェロニカにしてもそう。マーリヤの「帰る場所や生きる意味がないなら、私がつくるよ」という言葉でほだされていましたが、いやそれは既に第14話で同じ説得をしてるじゃないですか。そのときはすごく反抗的だったのになんで今になって急にそれを受け入れたのか。

というか今こそ「幸いの子」の真実を伝える絶好のチャンスですよね。例えば、

マーリヤ「ねえ、ヴェルは知ってる? 幸いの子の役目……私はずっと自分の運命を呪って生きてきた。家族や周りの人に次々不幸が降りかかって、災いの子と呼ばれて、なんで私がこんな目にって、何度も自分が嫌になった。でも、それによって自分はある意味守られていたんだって、私は知らなかった。だって、災いの子である私は、神獣の生贄に選ばれることはないから。神獣に捧げるのは幸いの子でなければいけない……もしレイドーンがスーナを焼き払っていなかったら、ヴェルは生贄にされていたんだよ

ヴェロニカの復讐心を一気に奪い去るのはむしろこの言葉しかありません。なぜこの真実をヴェロニカに伝えるシーンを入れなかったのか、本気で理解できません。だったらなんのために第20話でこの設定を明かしたのかって話ですよ。脚本家云々ではなくて、監督なりプロデューサーなり、誰か一人でもこのことに気づく人間はいなかったんですかね。ミスというには大きすぎる失態でしょう。

 

まとめ

 

最終話でヴェロニカやフリーが妖精との連携技を披露していましたが、それ出来るんならもっと早く見せてくれよって、多分視聴者は全員思ったのではないでしょうかね。これまでずっと人間は人間同士、妖精は妖精同士という戦いばっかりだったので、こういう連携技は出来ないんだとばかり思ってましたよ。まあ実際にはCG班と作画班がそれこそ「連携」しないといけないので、スケジュールや技量的に厳しかったのかもしれませんけどね。

 

そんな感じで、最終評価はこれまでと変わらずDです。(評価基準

前回の論評でも述べたことですが、「敢えて難しい作劇をしようとしているのに、結果としては常套よりも不出来なものになっている」という印象は最後まで変わりませんでした。囲碁をやっている人ならよくわかると思いますが、定石を外すときはその後の進行をよくよく計算して、どうして定石を外す必要があるのかを理由立ててから決断するというのがとても大事なことです。万事に通ずる大事な教訓ですね。

 

二度にわたり色々書いてきましたが、P.A.WORKSは過去に素晴らしいオリジナルアニメ作品をいくつも作ってきた実績があるので、今後も変に尻込みすることなく果敢に斬新な企画に挑んでもらいたいというのが僕の正直な気持ちです。今後もPAの作品は必ず視聴しますし、楽しみにしています。