『Fairy gone フェアリーゴーン』はなぜ失敗したのか

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2019年春アニメ『Fairy gone フェアリーゴーン』の前半クールが終わりました。後半は10月の秋クールから再開するようです。

タイトルの通りこの作品は視聴者の反応・評価としても、実際の作品の出来としても失敗したと断言して良いでしょう。僕自身、第1話評価でも途中経過でもD(最低評価)にしています。(評価基準

細かいツッコミどころを挙げればキリがないぐらい粗が多い作品なので、「ただのつまらないアニメじゃん」と言い切るのは簡単なのですが、「本質的にマズかった点はどこなのか」を真面目に分析しようという人はきっと多くなかろうと思うので、それについて僕の意見を書こうというのが今回の趣旨です。

 

単独作品についての記事はケムリクサに次いで2つ目なんですが、なぜか人気記事でずっと1位に居座り続けている前回と違って今回ばかりはマジで誰も興味ないと十分理解しています。そもそもこのアニメを見てる人自体が恐ろしく少ないでしょうから。完全に自分の思考整理のためだけに書きます。もうそれでいいです。まあでも一応、このアニメを見ていない人でもわかるような記述の仕方を心がけるつもりです。

Amazonプライムで見たい方はこちらから。ネタバレがさほど影響しない作品なので、この記事を読んでからでも問題ありませんが、僕自身は別にオススメはしません

 

 

まずは前提として、「悪かったのはシリーズ構成や各話脚本ではなく企画そのものであり、それは会社単位の問題であって個人の責任に帰するべきものではない」というのが僕の意見です。まあ内部事情はまったく知らないので実態はわかりませんが。

僕は世間の酷評よりはシナリオを高く評価しています。大きな筋や設定だけを見ればオリジナリティもあるし話の転がし方も面白いと思います。しかし致命的なミスがそれを余裕で帳消しにしてしまったためにこのような結果になったのだと思っています。

 

以下、僕が考える最大の問題点3つ、
主人公の物語になっていない
いたずらに複雑化させたシリーズ構成
戦闘の画面と音

を中心に分析していこうと思います。

 

 

第1話の問題点

この作品、第1話が全然面白くありません。すなわち、第1話の分析が一番重要ということでもあります。

まず第1話の概略を文章にしてみます。

 

主人公マーリヤは、幼い頃戦争によって友達のヴェロニカと生き別れてしまった。その12年後ヴェロニカの行方の手がかりを掴むためにマフィアに潜入していたマーリヤは、同じくマフィアに潜入していたフリーという男と、とあるオークション会場の警備担当として出会う。このとき賊の襲撃により、出品されていた国家機密レベルの重要書類が奪われてしまったが、その賊の正体はヴェロニカだった。

マーリヤが正体に気づき声をかけるも、フリーとヴェロニカはお互い所有している妖精(という兵器)を使って戦い始める。その戦闘の最中、特異現象によってマーリヤも妖精が使えるようになり、その力で二人の戦闘を仲裁する。しかしヴェロニカは「あなたの知っているヴェロニカはもういない」と言い説得に応じず、書類を奪って逃走。

本来違法である妖精を意図せず獲得してしまったマーリヤは、「逮捕されるか、俺の下で働くか選べ」とフリーに提案され、彼の所属する違法妖精取締機関ドロテアの一員となることを選んだ。

 

これが第1話のストーリーです。これは相当整理して記述しているので理解しやすいですが、実際のアニメは非常にわかりづらいです。

まず幼い頃のマーリヤとヴェロニカが燃える森の中を一緒に走るシーンの後切り替わって、戦争が終わってフリーの友人ウルフランがフリーの元を去っていくシーン。その後OPが終わると、もうオークションの場面です。その後マーリヤとフリーの初対面でのクッソつまらない会話劇の最中にヴェロニカの襲撃があり、二人による妖精を使った戦闘が開始。そのときにマーリヤが「ヴェルでしょ!? ずっと探していた……」と言いますがここではまだ二人が昔生き別れてしまったことはわかっていません。なのでその後逃げるヴェロニカを追ってマーリヤが「ヴェル待って! 話を聞いて!」と言ってもこっちにはなんのこっちゃわからない

その後場所を移した戦闘の最中に妖精が瓶から漏れて、それを救おうとするマーリヤに妖精が取り憑くのですが、そのときに回想が入り、ようやく生き別れになる場面が描かれます。、その回想の中で幼いヴェロニカが心の中のセリフで、

レイドーン(マーリヤとヴェロニカの故郷の村スーナを焼いた人)、スーナの生まれなのに、こんなこと、絶対に許さない!」

と言ってマーリヤを置いて無言でそのまま走り去っていきます。実はこのときヴェロニカは、

「私が兵隊を引きつけるから、その隙に逃げて。大丈夫、私足が速いの」

と、ちゃんとマーリヤに言ってから走り去ったのですが、これが判明するのは第4話になってからです。とりあえずそれは置いといて、その後回想が終わり目が覚めたマーリヤはまたヴェロニカを追って、説得を再度試みます。まずはフリーの足元に銃で威嚇する、そのときの会話。

マーリヤ「動かないで! 当てたくない」
フリー「俺はグイカーリン(二人が潜入しているマフィアの組織名)の人間だ。お前の上役だぞ?」
マーリヤ「それ、本当?」
フリー「(片方の口角を上げニヤっと笑う)」

(その後マーリヤの表情と声が豹変。湿っぽい音楽が始まる)

マーリヤ「ヴェロニカ、私と一緒に来て。ずっと探してたの」
ヴェロニカ「私を探すためだけにマフィアに?」
マーリヤ「そう、それが一番近道だと思って。だから一緒に行こう。今までどこにいたの? 会いたかった……スーナの生き残りは、もう私とヴェルしかいない。私たち二人しか」
ヴェロニカ「黙って!」
(中略)

なぜこのときの会話が全然響かないのか、すなわち感情移入できないのか。これこそがフェアリーゴーン最大の問題点である「主人公の物語になっていない」というものです。とりあえず第1話についてはこの後先ほどの概略通りの流れです。

 

 

ゲームとアニメのシナリオ作りの違い

このあと第2話以降、マーリヤはいきなり生命の危機をともなう危険な任務をこなし始め、その後ヴェロニカに一度だけ再会を果たすもまた置き去りにされてしまい、その後は国単位の大きな謀略の渦に巻き込まれていくという話になっていくのですが、マーリヤの目的意識や性格が破綻しすぎていて主人公としての役割をまるで果たせていません。それが見ている人の感情移入を妨げ、意欲的に物語を追う気を失せさせるのです。

 

これまでわかっている情報の中でマーリヤの個人史を時系列で記述すると、

0歳  生まれてすぐに両親が死ぬ
8歳  ヴェロニカと出会う
10歳 スーナが焼かれ、ヴェロニカと生き別れる
11歳 戦禍から逃れるために北へ行き、ファナチカの山で遭難したところを猟師ヴィクトルに救われる
・   その後ヴィクトルから銃の使い方を教えてもらう
13歳 ヴィクトルが病死した後、ヴェロニカと思われる少女の噂を追ってカルオーへ
16歳 このときまでカルオーのマフィア、ビャクレーの下で用心棒をする
(空白の6年間。どこかのタイミングでグイカーリンへ潜入しその下で働いていた)
22歳 フリーと出会い、ドロテアへ入る

ちなみに本編ではマーリヤの年齢について16歳の時期以外一切触れていないので他は間違ってる可能性もあります。

(10/28 追記)
2クール目最初のエピソード(第13話)でマーリヤの年齢が19歳だとようやく明かされました。なので正確な個人史は16歳のところ以外全てマイナス2〜3歳のようです。つまりビャクレーの下に6年近くいたということですね。僕が当初年齢を推定するのに参考にしたのはYoutubeで公開されているしょーもないショートアニメ『ふぇありーんごー』の第1回なのですが、これを見れば誰だって出会ったのが8歳の頃だと思うでしょう。あれは明らかに制作側のミスです。

 

「物語の主人公」として重要なのは13歳以降、かつて周囲から忌み嫌われ、生きる自信を失っていたはずの少女が、どのような覚悟をもってマフィアの下で働くようになり、その後さらに別なマフィア組織に潜入してヴェロニカの情報を探ろうとしたのか。それを描かなければこれはマーリヤの物語にはなり得ないのです

当然仕事の中では人も殺してきたでしょう。自分が殺されそうになったこともあるでしょう。それでも唯一の親友であり、「災いの子」だった自分をただ一人肯定してくれたヴェロニカに会って、叶うならこの先一緒に暮らしたい、そのためだけにずっと生きてきたんじゃないんですかね。これを知った上で先ほどの会話シーンを読み直してみてください。これでようやく感情移入できるようになるでしょう?

そのマーリヤの道のりと覚悟を一切描かず、それどころか最終話はドロテアの同僚の仇を取るために必死になってるマーリヤが描かれてるわけですから、主軸がブレすぎにもほどがあります。

 

その意識があれば第1話のフリーの勧誘シーンももっと変わってくるはずです。例えば、

フリー「誘っておいてなんだが、この仕事は犯罪組織を相手にすることが多い。当然命の危険もつきまとうだろう。それでもお前はやれるか?」
マーリヤ「私はこの8年間、ずっとマフィアの下で仕事してきました。金のためでも快楽のためでもない、ただヴェロニカに会いたい、そのために命を張ってきた。覚悟ならもう、できています」

このやりとりがあったら、視聴者のマーリヤに対する印象はまるで違ったんじゃないですかね。しかし本編ではこういう風に覚悟を問うてないので、「なんでなりゆきで入った組織でいきなり危険な仕事ができるの?」と、マーリヤの考えてることが全然わからないわけです。

 

こういう反論があるかもしれません。「制作陣はもっと客観的あるいは群像的に「戦記物(もしくは内乱劇)」を描こうとしているからマーリヤの視点にこだわる必要はないんじゃないか?」

それはわかります。事実物語が進むにつれてどんどん登場人物が増えていき、それぞれの陣営の思惑や裏切りなどが話の主軸になっていきましたから。だったらマーリヤの設定を変えるべきなんです。つまりなりゆきではなく志願してドロテアに加わるようにすればいい。単純に新入りとして組織に入ったマーリヤとその上司であるフリーの出会いから始まり、その後バディ物として話を進めればいいんです。感情移入が必要ないほど設定の単純な、明確なキャラクターにすれば群像として描きやすいわけです。設定が単純であるのとキャラクター描写を深くするのは両立できるものなので、それは別問題です。

しかし実際は群像的な物語を進行させつつ、やはり「マーリヤの物語」として作品を構成しようという意思が表れています。「災いの子」という言葉をずっと引っ張り続けているのが良い例ですし、マーリヤの過去を小出しにして主人公として影が薄くなるのを防ごうとしていますから。しかしそのくせマーリヤの過去の一番重要な部分が抜け落ちてるのは先ほど述べた通りです。

 

ここらへん、僕からするとゲームシナリオっぽいんです。特にファイアーエムブレムファイナルファンタジータクティクスのようなシミュレーションRPGですね。ゲームシナリオだったら客観的な群像劇と主人公の物語を並行して描くのは容易なんです。そして主人公の背景についてそれほど丁寧に描かなくとも、主人公は操作キャラクターであるため感情移入しにくいという心配はかなり減るわけです。

『フェアリーゴーン 』のような地理や組織や人物の固有名詞がガンガン出てくるようなシナリオも、ゲームだったらさほど問題にならないのです。毎話必ず戦闘シーンを入れていますし(シナリオの中で自然に戦闘を挟むのはゲームにとって非常に重要)、妖精という設定にしても戦闘システムに組み込むのに向いていて、ゲームシナリオとしての『フェアリーゴーン 』はよく出来ていると思います。

しかしアニメのシナリオというのは作りがまったく違います。常に時間の流れとのせめぎ合いの中で作られるアニメは一度に提示できる情報量に限りがありますし、固有名詞の取り扱いには相当気を遣う必要がありますし、感情移入の問題についても深く検討しなくてはいけません。ここらへんのアニメシナリオとしての不適切さがモロに出てしまってるのが今作最大の問題点の一つです。

 

ここで冒頭の言葉を繰り返しますが、これは脚本家個人の責任に帰すべきものではありません。こんな根本的な問題は、まずもって監督・プロデューサーの責任ですし、同時に制作を統括する立場にいる全員の責任です。「制作の体力不足によってクオリティが下がってしまう」のではなく、その遥かに手前の企画の段階で失敗してしまうのは、ひどくもったいない話だと思います。

 

 

「不親切さ」にも良し悪しがある

第1話の冒頭シーンを見てみましょう。

 

 

マーリヤの声「24年前、統暦481年に始まった統一戦争は、イースタルド全土に戦乱の嵐を巻き起こした。この長く激しい戦いで、人が手にした最大の武器は、妖精兵——」

 

 

そしてこのカットが入り、その後スーナの村がレイドーンによって焼き払われるシーンになるのですが、普通この流れだったら、スーナの場面は統暦481年の話なんだなと思いますよね。しかし実際は違います。これは統暦493年の話なんです。『フェアリーゴーン 』は常にこんなのばかりです。このカットで統暦493年と書けばいいだけの話なのに、それをしない。

一番最初にこの世界の地図が出てきますが、地図が出てくるのはここと、12話になってようやく出てくる2回だけ、しかもごくわずかな時間です。これから先たくさんの地名や都市名が出てくるのに地理関係や距離感が全然わからない。新たな街が出てきたときに隅に地図を出せばいいだけなのに、それをしない。最悪なのは公式サイトにすら地図がない

 

『フェアリーゴーン 』の話のわかりづらさは、「敢えてわかりづらくしてるのにその意図がわからず、説得力がなく、無駄に複雑化させているだけ」という類のものです。先述したマーリヤの回想でヴェロニカに置き去りにされるシーンだって、「ヴェロニカがマーリヤに何かを耳打ちしているカット」を挟むだけでいいんです。それだけで何か理由があって一人で去ったのだと十分わかるのに、それをしない。それをわざわざ第4話まで引っ張る理由って何ですかね。引っ張ったことで何か良い効果が生まれたりしましたかね。

 

「シナリオや細かい情報・設定がわかりづらい」というのには色んな種類があります。例えばスタジオジブリ作品(特に高畑勲作品)には、「いやそんな情報(絵やセリフや動き)だけでわかるわけねーだろ!」と言いたくなるような仕掛けや重要な鍵が山ほどあります。それは確かに不親切には違いありません。しかし、それらを全て理解できなくとも映画として楽しめるようになっているのがすごいところですし、彼らには「これだけで十分理解できるので、これ以上やるのは無粋である」という確信があるので不親切なまま世に出しているわけです。なので我々は何度も何度も繰り返し見て、その秘密を探ろうとするのですが、それは「高畑・宮崎作品には無駄なカットなんて一つたりともありはしない」という絶対の信頼があるからこそ出来るわけです。

 

一方で『フェアリーゴーン 』の不親切さはそれとは真逆に位置するものです。最低限理解しておかなきゃいけないことさえ順序をぐちゃぐちゃにしたりボカしたりすることで、わかりづらくなる上に話を追う意欲を失せさせるという最悪のパターンです。「初めてこれを見る人がどう感じるだろうか」という初歩中の初歩の視点が欠けているのです。

 

 

第1話冒頭修正案

僕だったら第1話の冒頭をこのように始めます。

 

(真っ暗な画面で)
マーリヤの声「私が生まれたときにはもう、戦争が始まっていた」
(昼間の戦場の風景。遠くから軍勢の声。こちらの軍勢の中にフリーとその上官が立っている)
上官「いよいよ初の実戦だな。やれるか?」
フリー「……はい!」
(近づいてくる軍勢を立ったまま見据えるフリー)
マーリヤの声「後にイースタルド全土を巻き込むこの戦争の中で、人が手にした最大の武器は——」
フリーの声「妖精兵」
(目を見開き胸を押さえ、妖精を出現させる。向かってくる軍勢を一瞬で薙ぎ払う妖精)
敵兵「な、妖精兵か! 全員散開しろ!」
(離れていく軍勢を横目に見つけるフリー)
フリー「叫べ!」
(妖精の必殺技で遠く離れた軍勢を吹き飛ばす。その後消耗し息が荒くなるフリー)
上官「よくやった、お前は成功したようだ。おめでとうフリー」
(肩で息をするフリー)
フリーの声「この圧倒的な力は、それまでの戦争の形態を一変させた」
(口元のアップになって、口角を釣り上げにやっと笑う)
(場面変わって「戦争開始から12年後、統暦493年 スーナ」の文字。森を逃げ惑う少女二人)
マーリヤの声「幼かった私は無力で、何もできなかった。けれど」
(転ぶマーリヤ。振り返るヴェロニカ)
ヴェロニカ「マーリヤ、立って」
マーリヤ「ヴェル……」
マーリヤの声「災いの子と呼ばれた私に、ヴェルだけが手を差し伸べてくれた」
(マーリヤの手を引くヴェロニカ。また走り出す二人)
マーリヤの声「私にとって、かっこよくて憧れのお姉さん。ヴェルがいれば、きっと私でも生きていける。そう思っていた」
(場面変わって夜の森。マーリヤを休ませてる間、ヴェロニカが森の彼方で、レイドーンが村を焼くのを見てしまう)
ヴェロニカの声「レイドーン、スーナの生まれなのに、こんなこと、絶対に許さない!」
ヴェロニカ「マーリヤ、よく聞いて」
(ヴェロニカが耳打ちをした後、マーリヤが目を見開く。その後、ヴェロニカが一人で走り去る)
マーリヤ「ヴェル待って、ヴェルー!」
マーリヤの声「そうしてまた、私は独りになってしまった」
(場面変わって「統暦495年 レドラッド」の文字)
終戦のときのフリーとウルフランは本編と同じで良いので省略。
(場面変わって、「統暦503年 ○○(適当な地名)」の文字。グイカーリンの仕事で標的を追うマーリヤたち)
同僚「マーリヤは橋の上で待機してくれ。そっちに追い詰める。くれぐれも殺すなよ」
マーリヤ「はい!」
(走って橋を目指すマーリヤ)
マーリヤの声「あれから私は、もう死んでしまおうかと思った。けれど、私を救い、育ててくれた人がいた。私に仕事を与えてくれた人がいた」
(セリフに合わせて猟師ヴィクトルとビャクレーのジングルのカットをフラッシュバックさせる。橋の上に着いて、猟銃を構える。標的が遠くから走って近づいてくる)
マーリヤの声「今の私はもう、無力なんかじゃない!」
(標的の足を撃ち抜くマーリヤ。すかさず同僚が捕らえる)
マーリヤの声「(一息ついて)待っててヴェル、今度は私がヴェルを、必ず見つけてみせるから!」
オープニング

 

これがまあ普通のと言いますか、ひねったりせずにストレートに物語を始める場合の例です。当然こんなのぐらいは制作陣のアイデアに含まれていたはずで、しかし彼らはそうじゃなくひねった方法を選んだわけです。少なくとも僕は本編のひねったやり方よりこちらの方がすんなり感情移入をさせることができるように思うのですが、どうでしょうか。

導入の親切さとして、

「生まれた頃には、と主観的に書くことでマーリヤの年齢をほのめかす」
「妖精兵が戦場でどれほどの威力を発揮していたのか、しっかり昼間の映像で見せる」
「ヴェロニカが少し年上だと明らかにする」
「置き去りに見えないようにする」
「マフィア時代のマーリヤを描く」
「以上を年代を明記しながら時系列で見せていく」

これらを全て満たすように書いたつもりです。

 

 

戦闘シーンの問題点

 

これは第1話、フリーの妖精の初登場シーン。初めて見た時は正気かと思いましたよ。妖精のデザインが黒を基調にしてるにも関わらず、なぜ一番大事な初登場シーンでこんな暗い場所を選んだのか。何か狙いがあるのかと思いきや、第1話の後半も、

 

 

こんな感じで結局暗くてよくわからない。ちなみにこれが必殺技の「叫べ!」というやつなんですが、12話やってこれがまともに相手にヒットすることが一度もないという。だから先ほどの第1話冒頭案でまず必殺技の威力を見せつける必要があると思ったんです。

 

 

第4話冒頭の対スウィーティー戦のシーン。

 

 

第5話の対パトリシア戦。とにかくこんな感じでひたすら暗い。普通はあり得ない采配だと思うんですけどね。妖精とその戦う姿をかっこよく描くのは最大の使命の一つでしょうよ。仮に戦闘を暗い場所で行いたいんだったら妖精のデザインを変更すべきだし、妖精を絶対黒くしたいなら戦う場所や照明をもっと工夫すべきです。

 

問題は映像だけではありません。もです。

『フェアリーゴーン 』の特徴として、歌ものすなわちヴォーカルつきBGMをやたら多用しています。戦闘シーンはほぼ毎回です。基本的にシリーズのアニメでは、戦闘シーンで歌ものを使うことは滅多にありません。なぜでしょうか。

まずは単純に音の情報量が多すぎるからです。戦闘シーンは普通効果音が常にあって、それに加えて音楽ヴォーカルがさらに重なるわけですから、音のバランスをとるのが非常に難しくなります。しかも音楽とヴォーカルはすでにミックスされているので、分離して調整することができない。もちろんミックス前の素材を渡せば技術的には調整できますが、そんなことをするぐらいだったら作る順序を変えるでしょう。つまり音楽を先に指定して、それに合わせて戦闘シーンを組み立てるということです。

実際今作は、全ての箇所かはわかりませんが、音楽を先に作ってからそれに合わせて戦闘シーンを組んでると思われます。第4話の冒頭シーンなんかはそれが中々うまくハマってるとは思いますが、一番大事な第1話があまり上手くいっていません。戦闘中によく喋る場面だし、音楽の展開とコンテが噛み合ってないからです。セリフがほとんどないか全く喋らない戦闘じゃないと、基本的には歌ものは難しいのです。次に大事なはずの最終話でもやはりそれほど噛み合っていません。

もう一つは尺の調整が難しいことです。歌ものじゃない音楽なら特定の数小節を削っても自然につなげることはできますが、歌ものの場合それができる箇所はかなり限定されます。なので数秒早く始めたいとか終わらせたいという調整がしにくいので、例えば11話の入り(4人が車に乗ってるシーン)などで音楽の始まりがやや不自然になってしまうわけです。とはいえ今作の場合は先に歌を用意してからシーンを合わせているので基本的には尺の調整はうまくいっています。

(10/28 追記)
先日劇伴がフィルムスコアリングで制作されているという記事を見つけました。リンクはこちら。なので映像のタイミングに合わせて曲を作っているということです。記事にもあるとおりヴォーカル曲であってもその作り方をしているというのはかなり珍しいのですが、一般的な音響制作現場でそのやり方を採用しないのは単に「面倒な割に効果が望めない」からだと思います。結局問題は映像というよりアフレコの音声や効果音とぶつかることであって、そこまで考慮した上でのフィルムスコアリング(とその後の音響編集)なのかは甚だ疑問です。

 

その第11話が今作を語る上で絶対に外せない戦闘BGMポイントですね。これは僕がとやかく言う前にまずは是非見ていただきたい。別にそれまでのストーリーとか一切理解する必要はないので、この場面だけでも見てみてください。Amazonプライムで見たい方はこちらから。第11話の15:30〜です。

 

 

 

はい、口笛おじさんのシーンです。まあもちろん判断は人それぞれなのですが、僕にとってはギャグです。

なんで滑稽に映るのかといえば、唐突に音楽と同調するのもさることながら、口笛がちょっと忙しいんですよね。「戦場で口笛を吹く」というリスカーの余裕を表したいはずなのに頑張って口笛を吹いてる感じが伝わってしまってそれが笑いを生んでしまうのです。口笛に意識が持って行かれて他は何も頭に入ってきません。

 

音楽プロデュースは(K)NoW_NAMEという制作グループが担当しているようですが、これもシナリオと同様、企画の範囲内の問題です。歌ものを重ねるというのを安易に考えすぎていたのではないでしょうか。新海誠が『君の名は。』においてヴォーカル曲とコンテの重ね方にどれだけ腐心していたか、よくよく学ぶ必要があります。

 

 

名場面

 

第5話、フリー対パトリシア戦。本気を出したフリーに対し劣勢のパトリシアが、自分の武器の入ったスーツケースをフリーにおさえられてしまう。その後にやっと笑ったパトリシア、妖精を頭上からけしかけるが、それもフリーに読まれ、妖精も使えなくなる。

 

 

「フッ」

 

 

「使えよ」と余裕たっぷりにスーツケースを蹴り渡すフリー。

 

 

パトリシア「ビタースウィート、厄介な仕事まわしやがって……」

 

 

スーツケースを持って逃走するパトリシア。ん? 逃していいの?

 

 

「っ!? 待て!」

 

は?

 

 

まとめ

 

第5話の名場面だけはどうしてもツッコんでしまいましたが、細かい部分についてはこれ以上言及しません。列車の窓の風景が逆走するくらい大した問題じゃありませんから。

さて僕自身、最低評価をつけておきながらなぜこの作品を最後まで見てしまったのかといえば、「制作陣は色々考えて作り込んでいるはずで、体力不足が顕著なわけでもないのに、どうしてこんな大失敗をしてしまったのか」というのに興味が惹かれたからです。特に第1話は今作の問題点が全て詰まってるような象徴的な仕上がりで、どうして統括責任者はこれを通してしまったのか、是非訊いてみたいところです。インタビューを読んでるとかなり自信満々だったみたいなんですがね。

そして最終話の終わり方もかなり酷くて、1クール空けて続編を待たせるような終わらせ方では到底ありませんでした。シュバルツディーゼの壮大な反乱劇は面白かったですが、それに妖精省・妖精学者組がほとんど関わっていなくてヴェロニカが蚊帳の外だったのが良くなかったですね。そこらへんの次の陰謀やら伏線を最終話の最後に挟んで次クールへ繋げるのが定石だと思うんですが。

 

最終評価はDで変わりません。今のところ後編の出だしくらいは追うつもりです。