第3章 現代音楽の脆弱性
ある創作文化に対して、価値の有無についての判断は完全に個々人の趣味によるが、「文化の強固さ」は客観的な基準で測ることが可能である。私の考える基準は以下の4点である。
①新作の発表頻度と作品へのアクセスのしやすさ
②非創作者(鑑賞者)による議論・分析の熱量
③創作者同士の影響の強さ
④制作手法の透明さ
現代において、「漫画」がどれほど強固な文化であるかをこの基準を基に考えてみる。
①については言うまでもない。出版社と契約して連載しているプロの漫画家に限定したとしても、一度の人生では到底読み切れないほどの膨大な作品が日々作られている。そして出版契約以外のプロやアマチュアの作品がその何倍も存在している。紙媒体や雑誌で素早く安価に読めるのは勿論、電子書籍の普及とSNSツールの普及によってアクセスのし易さは日々進歩している。②についても同様である。オンライン・オフラインを問わず、世界各国で最新の漫画作品について語り合うコミュニティが多数存在している。
私が強調したいのは③である。これは①にも関係することだが、膨大な新作が作られるということはつまり「模倣」と「差別化」の繰り返しが頻繁であることを必然的に意味する。ひとたび人気作が現れると必ずその模倣作が作られ、それが溢れるようになると次はそれらとどう差別化するのかという研究に迫られる。この流れの形成は必ずしも商業的理由に依るとは限らない。そもそも漫画は様々な技術の集合体であり、各技術単位での模倣と差別化は全ての漫画家にとって避けられない宿命である。そこでの選択がそれぞれの漫画家の個性を形作る。したがって大部分の漫画家の作風には時代性が色濃く現れる一方で、意志を持ってその時代性と距離を置こうとする漫画家もいる。そうして形成される「主流と傍流の相互作用による地形変遷」(※少年ジャンプに代表されるようなメインストリームの作家が大筋の潮流を作るが、一方で雑誌連載すらしていないネットの片隅の個人発表の作品が多くの作家に影響を与えることもあるという歴史変遷のこと)が、すなわち漫画文化の豊かさそのものと言える。
③を強固にする前提となっているのが④である。これは映画を例にするとわかりやすい。映画作品の中のあるシーンがどのように撮影されているのか、その手法を見破るのは容易ではない。現場経験と知識を積めば少しずつ分析能力も向上していくが、それでも全てのシーンの撮影の手法を分析し尽くすのは非常に困難である。まして現在はCG合成処理を使用するのが当たり前になっているので、撮影の実態を看破するのはほとんど不可能だ。これが一番透明なのは文学で、文字さえ読めれば分析に必要な情報は全て明かされている。そして漫画もまた最も透明な創作文化に属している。このように、芸術の中には制作手法の透明なものと不透明なものがあり、それらは明確に分かれているのではなく、段階的な度合いが存在する。
②は創作者にとっては無関係と思われるかもしれないがそんなことはない。スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』において、当初は難解な内容を補足するためのナレーションが用意されていたが、最終的に監督判断でそれを削除したというのは有名なエピソードである。過去の同監督の作品の商業的・芸術的実績を鑑みて、この映画作品がどれだけ多くの人に見られ、その中の熱心なファンがどれだけ作品外の資料を基に分析・議論をするか、という計算の結果に基づいた判断である。作品の理解しやすさと芸術的ポエジーはしばしば衝突するが、創作者がそのバランスを決めるときの重要な基準が②の強固さなのである。
では現代音楽文化をこの基準を基に考えてみる。
①について。これは作曲家の数も少なければ作曲のスピードにも限界があり、さらに記譜音楽の場合は演奏家の練習期間も必要になるため、新作の発表頻度は極めて低い。作品を完全な状態で聴取するには演奏の行われる現場に赴く必要があるが、主に経済的な理由により、新作が頻繁に演奏されることはない。不完全な聴取になるとは言えせめて映像だけでもアクセスできればよいが、新作の映像をいつでも閲覧できるように整えてある環境は非常に少ない。
②について。作曲家ではないアマチュアの愛好家が世界初演の新作について語っているのをインターネット上で見つけるのは非常に稀なことである。私はパリに滞在している数年間のうちにコンサートで聴いた初演作品の感想を日本語でブログに投稿してきたが、発見できるのはせいぜいその程度のもので、アマチュアが熱心に語り合うコミュニティなどほとんど、あるいはまったく存在していない。そもそも熱心なアマチュア自体が非常に少ないので当然のことである。
③と④について。まず④に関しては、現代音楽文化はその制作方法が非常に不透明である。かつての「クラシック音楽の黄金の時代」においては、一定以上のソルフェージュ能力さえあれば作品を聴くだけで楽譜をほぼ完全に頭の中に描くことができた(演奏家がミスをしたとしても可能だった!)が、それは時代を経るごとに少しずつ困難になっていき、現代においては「100%不可能」になった。これは困難すぎるが故に不可能なのではなく、原理的に不可能という意味である。理由はいくつもあるが、大きな二つを挙げるなら、「演奏家のミスを判別できない」、「演奏行為の記譜と演奏結果の記譜の区別がない」ことである。つまり、結果が意図したものかそうでないかの判別が出来ない以上、その結果を生み出す元になっている楽譜を想定するのは原理的に不可能というわけだ。
では電子音楽作品の場合は透明かと言うとそれも違う。まずライブエレクトロニクス作品(※演奏者の音をマイクで録音し、その音をMAXなどの専用プログラムでリアルタイムに変換し、スピーカーからその音を流す手法の音楽。つまり、楽器の生音と変換された音を同時に聴くということ。主にIRCAMの研究生によって作られる)の場合、よほど単純なものでない限りそのプログラム(アルゴリズム)を正確に看破するのは不可能である。私からすれば、むしろ「どうやって複雑なプログラムを聴衆に理解させるか」を主眼とすべきだと考えるが、今のところその思想で作られた新作に出会ったことはない。では固定電子作品(※PCなどで音楽制作作業を全て終えて、演奏家を使わず会場のスピーカーから音を流すタイプの作品。スピーカーオーケストラ(アクースモニウム)もこれに属する)の場合はどうか。これは作品に依るが、音響体が複雑になればなるほど不透明さは増していく。同時に鳴る音響体の中で、どの部分がマイクで録音した素材であり、どの部分がプログラムによって自動生成された素材なのか、判別することは不可能だ。これは演奏行為という視覚情報が存在しないためである。
そのような④の状況にあって、③は必然的に弱くなる。作品の背景にある思想とその実現手法が不透明ということは、その作品が何を課題としているのか、その作品がどのような問題点を解決しようとし、そのためにどのような手段をとったのかがわからないということである。その結果残るのはポエジーしかない。本来ならば作曲のサマーセミナーなどのイベントがその解決策になりうる。自作品解説とそれに対する議論によって作曲家同士の問題意識が健全に発展していく可能性はあるはずだが、制作の不透明さが他者作品への関心を失わせているため、そのような場があっても認識の積み重ねが一定方向に建設的に進んで行く望みは薄い。結果、ポエジーのみを拠り所とした脆弱な文化が出来上がる。
現代音楽とは、「曖昧な作品を曖昧な基準で曖昧に判断する文化」である。
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本章冒頭で書いた通り、創作文化の強固さは文化的価値の有無とは関係がない。ではなぜそれを論じたのかと言えば、文化の強固さは「どれだけ豊かな外側の構造を獲得できるか」に関わってくるからである。
そもそも芸術の根本原理は「外側の構造」にある。人間は最初、現実世界を外側の構造として芸術作品と向き合う。幼児がテレビを通じてアニメ作品を見るとき、その中のキャラクターは現実に存在しているものとして認識する。やがて成長してアニメキャラクターが現実には存在しないことを理解した後でも、作品の中で描かれる出来事やキャラクターの心情は現実世界と変わらないものとして認識する。ヒーローの活躍は嬉しいし、友達の死は悲しい。そうした鑑賞を繰り返していくうちに、現実世界とは別の「アニメ作品」という外側の構造に対する認識を獲得していく。他作品との相対的な鑑賞を身につけ、共通部分・異なる部分に気づき、脚本や作画や音楽といった個別の情報に注目するようになり、それぞれに個別の外側の構造を見出すようになる。彼がこの段階に至ったとき、もはやヒーローの活躍や友達の死は彼の感情を揺さぶる「出来事(événement)」ではなく、作品を成立させるための「装置(mécanisme)」であることを認識する。これが人間の芸術に対する認識発展過程の一般原則である。
もう一つ、西洋の宗教画を例に挙げる。ほぼ全ての現代人は宗教画を目にするよりも前にイラスト表現に触れる。それこそ漫画であったりアニメであったり絵本であったりすることがほとんどだろう。そうした経験の上で宗教画に触れると、まず最初は宗教画とは異なる外側の構造を頼りに鑑賞を始めることになる。それが漫画なのかそれ以外のものなのかはその人の育つ環境次第である。しかしそこから先、宗教画の外側の構造を理解するために、繰り返し鑑賞するだけでその知識を身につけるのは非常に難しい。なぜなら私たちはそれが描かれた当時の文化的背景の中で生きてはいないからだ。そこで解説の手を借りながら外側の構造を少しずつ獲得していき、やがて自分独自の鑑賞の目をようやく養うことができるようになる。
さて、西洋のクラシック音楽の場合でも、基本的には宗教画と同じような認識の発展過程をたどることになる。なぜなら現代の私たちの生活様式では身の回りに商業音楽が溢れていて、よほど意識していない限りそれらを避けて生活することは想定しにくいからだ。よって初めてクラシック音楽に接するときもそれらを外側の構造として音楽的訓練を始めるわけだが、絵画の場合と異なるのは、そこに音楽独自の構造があることだ。それがまさに「内側の構造」である。リズムの繰り返し、ハーモニーの繰り返し、音程差の繰り返しによるメロディーの繰り返しを少しずつ認識していく。もしその子の音楽的才能が十分であればという注釈は必要だが、音楽にはその他の芸術分野の外側の構造に頼らない、さらに言うならクラシック音楽そのものが持つ外側の構造にさえ頼らない原理が存在することに気づくことができる。
内側の構造が音楽にしかないというわけではない。詩における韻の存在はまさに内側の構造そのものである。しかし原初の詩が歌と切り離せない関係であると考えると、やはり音楽と無関係とも言えない。本来は外側の構造しか持たない絵画という表現に、初めて(芸術上の命題として)内側の構造を持ち込んだのがパウル・クレーではないかと私は考えている。その点において、クレーの作品はカンディンスキーのそれとは全く異質なものである。美術史の中で革新的な偉業を為したクレー自身が、美術家であると同時に音楽家であったというのがそれを物語っている。
本章のまとめとして、二つの重要な提言をする。
「芸術には純粋な鑑賞など存在しない」
「ポエジーからは逃れられない」
前者については宗教画の例で説明した通りである。私たちが馴染みのない創作形式に出会うとき、現実世界を外側の構造として鑑賞するか、他の創作形式の外側の構造を頼りに鑑賞する以外の道はない。日本人・外国人を問わず、能楽や歌舞伎を初めて鑑賞するときも同様である。前提知識を持たない場合、私たちは他の舞台芸術の外側の構造に頼るしかない。頼るべき外側の構造さえ持たない場合は、その表現のエキゾチズムに感動するか、エキゾチズムにすら興味がなければ脳内に何の刺激も生まれず虚無の時間が流れていくだけである。
現代音楽文化はまさに「初見で能楽を鑑賞する」行為の繰り返しと似ている。最悪の場合、「自分が勝手に援用した外側の構造による鑑賞こそが純粋な芸術鑑賞である」とさえ考えている人もいる。言うまでもなくそれは幻想でしかない。そこに明確に存在している外側の構造を無視して作品の本質を掴んだ気になっているだけである。これは「文学作品の解釈は人それぞれである」というのとは全く次元が違う。文学を例にとるなら、「ミステリー小説に対してホラー作品として面白くないと批判する」ようなものだ。これは作品解釈以前の問題である。なぜこのような事態が起こるのかと言えば、それほどまでに外側の構造が脆弱だからである。
脆弱とはいえ、現代音楽にも外側の構造は存在する。記譜音楽の場合、演奏家を介在させるという行為が既に外側の構造を生んでいる。ピアノ作品ならばピアノ演奏技術という構造、オーケストラなら楽器の使用法やアンサンブルの形態、その他にも特殊奏法、微分音など、外側の構造は何重にも存在している。しかし、作曲者が最も重きを置いている外側の構造が何なのか、複数の構造にどのような優先順位がつけられているのか、作品の鑑賞だけでは一切明らかになることはない。ならばせめてプログラムノートなどでそれが明かされればよいが、そうすることで作品のポエジーが失われることを恐れてなのかは知らないが、テキストによる十分な説明もほとんどお目にかかれない。したがって、専門家は自分の想定している外側の構造のみを頼りに現代音楽作品を鑑賞・批評する。そしてアマチュアはその外側の構造すら想定できないために、自分の感性に合うようなポエジーの登場をひたすら待つが、大抵は徒労に終わる。これが現代音楽の現状である。
この流れでポエジーについても論ずる。結局のところ、芸術表現においてポエジーから逃れることはできない。かつてセリエル音楽やアレアトワール音楽が生まれた背景には「(既存の)ポエジーから逃れる」という文脈もあったが、結局のところその目的は達成されなかった。生まれたのはポエジーのない作品ではなく、不器用なポエジーを伴った作品である。ジョン・ケージの『4分33秒』でさえ、彼が楽譜に記した文字、演奏家が実際に舞台上で振る舞う行為、そしてなにより作品タイトルに『4分33秒』と名付けることそのものがポエジーの発露なのである。
「何をやってもポエジーは生まれる」という前提から、「だから外側の構造に頼らずにポエジーだけを追求する」という結論を導くのが誤りなのである。なぜなら既に述べた通り、「純粋な鑑賞」などというのは幻想に過ぎないからである。「創作者が好きにポエジーを発露し、鑑賞者は自由にそれを解釈する」というコミュニケーションに、人々は満足できない。ある創作文化がその段階に至ったとき、人々は他のより強固な創作文化へと移っていき、それに敗れた文化は廃れていく。したがって導くべき結論は、「ポエジーを強固な構造にいかに結びつけるかを追求する」ことである。
「現代音楽文化は脆弱である。」この認識に至った後、作曲家の辿る道は二つある。
「脆弱な文化で結構。完全に廃れるまで自分は自分の活動を続ける」
「脆弱なままではよくない。かつての強固な音楽文化を取り戻す方法を考えたい」
前者の作曲家に対しては私は何も言うことはない。ここで議論終了である。当然私は後者の立場であるので、次の章に進む。