Algomuze——新しい視聴覚芸術の創出についての一案

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第4章 新しい視聴覚芸術の創出についての一案

なぜ私が第2章でソナタ形式の文化について述べたのかと言えば、それが芸術の基本原理である「外側の構造」と、音楽独自の原理である「内側の構造」を同時にもつ極めて高度な文化であることを説明するためである。したがって、強固な音楽文化の再建のために辿る道は、これまた二つある。

「文化の脆弱性(第3章①〜④)を一つずつ解決していきながら、文化としての強固な外側の構造の獲得を目指す」
「音楽独自の内側の構造を徹底的に研究し、その結果として自然と外側の構造が出来上がるのを待つ」

それぞれの道で見つかる解決策は一つではないと私は考えている。今後の作曲家たちが面白いアイデアを生み出すことを、私は皮肉ではなく心から期待している。私自身のアイデアは後者に属する。

それが「視覚的アルゴリズムの音声化と音声情報の視覚オブジェクト化、その二つの合成と発展による作曲法」である。

 

創作方法を説明するための例を紹介する。ここでは「映像を伴った音楽作品」を想定する。

①時計のオブジェクトを用意し、針Aが1秒ごとに右に1回転して12の数字を通過する度に音が1回鳴るというアルゴリズムを開始点とする。視覚的にわかりやすく、音が鳴るのと同時に瞬間的な視覚エフェクトを付け加える。非常に単純なアルゴリズムで、出力結果(映像と音)を容易に想像できる。

 

 

②針Aが12の数字を通過するのと同時に針Bを追加する。針Aが1回転するごとに、針Bは右に30度回る。①の音の他に、針Aと針Bが重なるときにも音が鳴るとする。そのときには①と同じ視覚エフェクトを付け加える。少しアルゴリズムは複雑になったが、それでも出力結果が想像出来ないほどではない。

 

③針Aが6の数字を通過するのと同時に針Cを追加するが、こちらは針Bの2倍の速さで左回転する。この針も同様に、他の針と重なったときに音が鳴るとする。このときにはもう出力結果の想像が非常に困難になる。このアルゴリズムが10秒間の間、どのようなリズムを生み出すのかを頭の中だけで正確に想像するのはほとんど全ての人間にとって不可能だろう。したがってこのとき鑑賞者は、「これは音を先に作って映像を当てはめたのではなく、最初に映像を作ってからそれに同期するように音を当てはめたのだな」と推察する。音が映像に従属している形態、これが「視覚的アルゴリズムの音声化」である。

 

 

 

①を5秒、②を7.5秒、③を10秒かけて提示した後、次に進む。

④時計のオブジェクトの隣に9マスに区切られた正方形のオブジェクトを用意する。1辺の長さは時計の直径と同じにする。ここで8種類の持続音を用意しておく。オルガンのような音高を判別できる音でもいいし、雨音のような音でもいい。その音が鳴っている間だけ、それに割り当てられたマスが薄く変色するように同期させる。中央のマスだけは空けておく。規則的に音を鳴らしていくのではなく、まるで今MIDIキーボードで即興演奏しているかのように8つの音を任意のタイミングで鳴らしていく。このとき鑑賞者は「これは音を先に作ってから、それと同期するように後から映像を作ったのだな」と推察する。映像が音に従属している形態、これが「音声情報の視覚オブジェクト化」である。

 

 

④を30秒ほど提示している間に、鑑賞者は状況を整理する。「なるほど、これは音が映像に従属している形態と、映像が音に従属している形態を、同時に提示しているのだな」と、少しずつ理解していく。ここで次に進む。

⑤左右二つのオブジェクトが中央に動いてピッタリ重なる。重なった後も、二つのオブジェクトは今まで通りの音声出力を続ける。そうすると、時計の針同士が重なった位置のマスがちょうど変色している瞬間もやってくる。そのときだけ針の重なる音を通常とは別の音にする。違いがわかるようにその差を明確にする、もしくは少し音量を上げて目立つようにする。

 

 

しばらく経ってこの仕組みを理解したとき、鑑賞者はどうなるか。迷子になるのである。「一体これは、映像が音に従属しているのだろうか。それとも逆なのだろうか。それはわからないが、映像と音が生み出す仕組みについてはなんとなくわかる……」

鑑賞者をこの状態に陥れることがこの作曲法の狙いである。まとめると、

・音が映像に従属する「視覚的アルゴリズムの音声化」を提示する
・映像が音に従属する「聴覚情報の視覚化オブジェクト」を提示する
・その二つが映像上で合成されるときに、出力音声に何かしらの影響を与える

これにより、映像と音のどちらが先に作られたのかわからず、その従属関係もわからない、謎の合成体が誕生する。これが「視覚的アルゴリズムの音声化と音声情報の視覚オブジェクト化、その合成と発展による作曲法」である。

 

私はこれをAlgomuze(アルゴミューズ)と名付けた。

 

さて、ここまでの段階で既に、作曲家は重要な音楽上の判断を数多く迫られている。

・①、②、③の音は同じ音にすべきなのか、それともそれぞれ違う音にすべきなのか。違う音にするなら、音高のある素材にすべきなのかどうか。もし音高のある素材なら、ハーモニーをどうすべきか。
・①、②、③の音の音量バランスをどうするか。同じ音だとしても、音量まで同じでいいのかどうか。また、そのときの音の定位をどうするか。
・④の持続音の選択をどうするか。音高のある素材で統一すべきか、音高のない素材で統一すべきか。それらを混ぜるならどの割合で混ぜるべきか。似ている音を敢えて用意してもいいのかどうか。
・④の8種類の持続音をどの順番で提示すべきか。音を同時に鳴らす場合は何種類まで重ねてもよいか。それらの選択の結果、「映像が音に従属している」と鑑賞者に認知させることが可能かどうか。
・⑤で鑑賞者にわかりやすく仕組みを伝えるためにはどうやってマスを変色させればよいか。その後、鑑賞者を迷子にさせるためには、どうやってマスを変色させればよいか。

こうした数々の分岐を前にして、作曲家は意思を持って一つずつ決断していく。その結果、作品が一つのポエジーを獲得するのである。これが第2章で示した「ソナタ形式の作曲法」とまったく同じ過程であることに気づいただろうか。Algomuzeもまたソナタ形式と同じく、選択の連続によって作られる。ここで第2章の私の言葉をそのまま引用する。

作曲者にとっての「選択の連続」はそのまま「鑑賞者にとっての評価判断」となるのであり、鑑賞者は不可逆的な音楽進行の中にあっても、「作品理解のための構造把握」と「芸術的な価値判断」の両方を同時に行うことができる。この作曲家と聴衆の関係性が「クラシック音楽の黄金の時代」を形成した。

Algomuzeが「西洋クラシック音楽史の継承者」であることに、これで異論の余地はないだろう。私が現代音楽とは全く別の表現分野としてAlgomuzeを提示しているのではなく、Algomuzeこそが現代音楽の行き着く未来であると主張する所以である。

 

さて作品はこれで終わりではなくむしろ始まったばかりで、これまで提示してきた素材を発展させなければいけない。ここではわかりやすく、時計のオブジェクトに限定して話を進める。すなわち視覚的アルゴリズムの発展のみを検討していく。時計の針が数字を通過もしくは他の針と重なったときに音が鳴るというアルゴリズム、これをどう発展させるか。私は次のページに6通りの発展例を用意してあるが、それを見る前に読者はまず想像してみてほしい。そうすれば、私とのコミュニケーションがより楽しくなるはずだ。

 

 

 

 

(1) 時計の針を増やす

(2) 針の動きを変える。等速運動ではなく加速度をつけても構わない。

 

(3) 数字の通過で音が鳴るのは針Aのみだったが、それを他の針にも適応する。針Bは4、針Cは8を通過したときに音が鳴る、など。

(4) 時計そのものを増やす

 

(5) 時計の針を延長する。延長した先には様々なオブジェクトが用意されており、それを通過するときにやはり音が鳴る。大きなオブジェクトなら通過時間が長いので持続的な音になるし、小さなオブジェクトなら打撃音のようなものになるだろう。

 

(6) 時計が小さくなったと思ったら背後からより大きな時計が出現する。そちらも同じアルゴリズムで動いているが、巨大なため針の動きが遅く、重量感を伴う音が常になっている。巨大な針同士が重なるときには重々しい衝撃音が鳴る。

 

 

 

最初の4つは誰にでも思いつく展開、いわゆる定石というもので、残りの2つは思いつくのが難しい、意外性のある展開である。ここでもやはりソナタ形式の作曲と同じ、作曲者と鑑賞者の「期待と裏切り」のコミュニケーションが発生している。定石ばかりでは面白くないし、意外性ばかりでは展開の必然性が薄れる。ここでどうバランスを取るのかによって作曲者の個性が見えてくるというわけだ。

展開の選択肢として、素材の発展ではなくまったく新しい素材を持ってくることも当然ある。その際には前の素材と関連させる場合もあれば、まったく関連させない場合もある。一見無関係に思えた素材同士が最終的に合流するというのはよくある構造だ。しかし最後まで脈絡のない素材が現れては消えて、というのを繰り返すと、鑑賞者は展開に必然性が感じられず次第に興味を失う。これは音楽でも映画でも漫画でも共通する理屈である。音楽の場合、重要な役割をもつ複数の動機を全て記憶しておくのは訓練していないと難しいが、Algomuzeの場合は視覚情報を伴っているので、記憶に残りやすい。冒頭で提示した時計のオブジェクトが完全に消えてしばらく映像上に現れなかったとしても、後でもう一度登場したときにはそれが冒頭の素材であると瞬時に理解できる。これがAlgomuzeの内側の構造としての強みである。

 

【集団創作文化への道】

Algomuzeの内側の構造についての説明が一通り済んだところで、次はこれが外側の構造を獲得する可能性について述べていく。面白い作品、そして人類全体の財産となるような作品は、豊かな創作文化の中の方が誕生しやすい。その文化は一人の天才によってのみ生み出されるものではなく、天才の仕事に感銘を受けた大勢の人間たちの試行錯誤という土壌が必要不可欠なのである。Algomuzeが真に価値ある芸術表現になれるかどうかは、豊かな創作文化を背景にした強固な外側の構造を獲得できるかどうかに懸かっている。その可能性を測るために、第3章で私が示した「文化の強固さ」の4つの基準をもう一度引用する。

①新作の発表頻度と作品へのアクセスのしやすさ
②非創作者(鑑賞者)による議論・分析の熱量
③創作者同士の影響の強さ
④制作手法の透明さ

これらの項目について検討を始める前に、分業体制について述べる。将来的にAlgomuzeの作曲家が増えてくると、その多くは分業体制に移行すると思われる。Algomuzeそのものは映画におけるストーリーボード、アニメにおける絵コンテに相当するもので、いわば作品の設計図のようなものである。専門家じゃないと読み取りが難しい絵コンテと比べれば、設計図とはいえ十分な芸術表現が可能なAlgomuzeは、それ単体でも「未完成」という印象を与えることはない。しかし実際問題として、映像制作と音楽制作という別々の技能が要求される以上、それぞれに長けた専門家のほうが人数として圧倒的に多いのは事実である。となると、理想的な制作体制は個人よりも集団ということになる。

既に述べた作曲法でわかる通り、Algomuzeそのものは映像が先でもなく音楽が先でもなく、同時にしか作ることができない。したがって、設計図そのものは作品の最初から最後まで一人の人間だけで完成させる必要がある。しかし、一度完成した設計図に基づいて、それぞれの専門家がそれをブラッシュアップ・仕上げ・補強することは可能だ。作品の本質をまったく歪ませることなく、多くの作曲家が持ち合わせていないであろう3D映像技術やイラストアニメーション技術で作品の「見た目」を豪華にすることができる。あるいは音楽でオーケストラを使いたい場合にそのオーケストレーションを他の作曲家に依頼したり、複雑な音声合成を用いたいときにその部分だけを他の人間に依頼することもできる。これは実際に行われているアニメなどの映像制作体制と非常に似ている。

 

その上で先程の4項目を、④から順に検討していく。Algomuzeの制作手法は透明である、と言うよりむしろ、透明でなくてはならない。確かに専門家の技能が高すぎるが故に映像技術そのもの、音楽(音声)技術そのものがどういう手法で作られているのかわからない、ということは起こりうる。しかしそれはAlgomuzeの本質とは関わりがない。「映像と音の従属関係が不明なのに、それらが密接に結びついていることは明らかで、作品がどういう構造で展開しているのかもはっきりわかる」これがAlgomuzeの本質である。視覚情報と聴覚情報の結びつき方や、作品構造に不透明な部分があるとすれば、それは作品としてうまく機能していない証拠だ。Algomuzeにとって制作手法の透明さは、努力目標ではなく必要条件である。

次に③について。Algomuzeはコンピュータープログラムにおけるオープンソースと同じ思想を持つ。一度作品で使われた視覚的アルゴリズムや音声情報の視覚化の方法、そしてその合成方法は、直ちに文化集団全体の財産となるのだ。個別の技術に著作権など存在しないからだ。他者が作ったのと同じアルゴリズムを用いることはむしろ歓迎される。過去の作品とは違う使用法、つまり別の機能や展開を実現させることを期待されるからである。こうして個別の視覚的アルゴリズムや音声情報の視覚化オブジェクトの研究が進み、どんどんと外側の構造が強化されていく。一つだけ危惧する点があるとすれば、これは④にも関わることだが、あるアルゴリズムが数学的に難解すぎて実現手段がわからない、ということは起こりうる。その際、作曲者にはそれを積極的に開示してもらいたい、というのが私の願いである。

次に②について。Algomuzeには客観的な価値判断基準がある。それは「視覚情報と聴覚情報の従属関係を織り交ぜて、不明な状態を作ることができているかどうか」「視覚素材の発展によって作品構造が展開されているかどうか」の二つである。これは非創作者でも十分に判断可能である。慣れないうちはそれが簡単には判断できなくとも、数々の作品に触れていくうちに、だんだんとその判断能力も向上していく。そうして自身の鑑賞能力が上がっていく喜びを否定する人間は少なかろう。そして、映像と音楽には個別のポエジーがあり、その複合体にもポエジーがある。ポエジーは客観的な基準ではないが、主観的であるからこそ鑑賞者は自分の趣味に合うかどうかを語りたくなる。この客観的評価と主観的評価のバランス、これもまたAlgomuzeの強みである。

 

最後に①について。Algomuzeの唯一にして最大の問題点、それが「作るのが難しい」ことである。この難しさを少しでも緩和しない限り、新しい文化の誕生など到底期待できず、今まで述べてきたことは全て机上の空論で終わる。これについては第6章で詳述する。