Algomuze——新しい視聴覚芸術の創出についての一案

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私の音楽院での卒業論文を公開します。大学ではないので、これは学術論文ではありません。フランス語で言うところのまさに「エッセイ(試論)」ですね。

内容はタイトルにある通り、批評のためではなく、創作をする人のための芸術論みたいなものです。全6章立てで、第2章だけは音楽の専門的な内容が多いですが、知識がなくても論理構造はわかるように明確に書いたつもりです。第3章では漫画や映画の話題もあるので、そこだけ読んで頂いても構いません。一つ一つをじっくり考えながらというよりは、まずは全体をざーっと読んで頂いたほうが、なんのための論文なのかわかりやすいと思います。文字数は約24000字、文献などの引用は一切なく、全て僕の言葉だけで書かれています。

フランス語版の原題は「現代音楽の脆弱性の解決策としての、新しい視聴覚芸術の創造についての一案」です。

 

これは一つお願いなのですが、もしよければこの論文をダウンロードして皆さんの手元に置いといて頂きたいのです。僕のこのホームページサーバーとドメインは来年末までは継続料金を支払済みですが、なにせ危うい人生を送っているものですから、僕が突然この世から退場しても何ら不思議ではありません。この論文が、僕がこの世界に貢献できる最後の仕事になる可能性は十分あるんです。それくらいの価値はあると、今は少なくともそう思っています。なので、ネットの海から完全に消滅してしまう前に、よければパソコンやスマホの片隅に置いといて頂けると嬉しく思います。1MB程度ですので。

確かにこれは卒論がきっかけで書かれたものですが、この論文自体は僕の人生の研究そのものなので、これで完成ということは全然ありません。今後長く生きられるようでしたら内容をどんどんアップデートしていきたいと思っています。もし内容を更新したらこちらでお知らせしていきます。

日本語版のPDFはこちらから。フランス語版のPDFはこちらから

論文の内容についての質問や意見、または翻訳についての指摘などあれば是非コンタクトフォームからご連絡ください。

 

さて、ここからは日本語版の論文をそのまま載せていきます。せっかくなのでこちらではPDF版には載せていない注釈も少し追加しています。※マークで書かれているものがブログ用の注釈です。長いので章ごとにページを区切っています。それではどうぞ。

 

 

 

 

 

 

第1章 構造とは何か
第2章 ソナタ形式の文化とその崩壊
第3章 現代音楽の脆弱性
第4章 新しい視聴覚芸術の創出についての一案
第5章 芸術の3文脈
第6章 今後の展望と課題

 

本論の目的は「現代音楽文化の脆弱性について分析し、その解決策としての新しい音楽文化の創出についての一案を提示すること」である。ここでの「現代音楽」は、「主に大学や音楽院のポストに就いている作曲家が、国やコンサートホールや演奏団体からの委嘱を受けて制作する音楽、または現代音楽フェスティバルや自主企画コンサートにおいて初演が行われる音楽」を指す。

 

第1章では、本論を進める上での核となる概念である「内側の構造と外側の構造」の説明を行う。

第2章では、18世紀から19世紀にかけてのクラシック音楽において、なぜソナタ形式が中心的役割を果たしていたのか、またその文化がなぜ崩壊したのか、その理由を第1章で提示した概念を元に説明していく。

第3章では、まず「創作文化の強固さ」という概念について説明した後、現代音楽文化がその要件を満たしていないことを指摘することでその脆弱性を論じる。

第4章では、第3章で指摘した脆弱性を解決するためのアイデアを提示する。またそれが私個人の創作に留まらず、新たな集団的創造文化に発展する可能性についても論ずる。

第5章では、「価値ある芸術表現」のための要件について説明し、第4章のアイデアがそれらを満たしていることを示すことで、それが歴史的必然性を備えていることを補強する。

第6章では、第4章のアイデアを集団的文化にするための最大の課題について説明し、その解決策と展望について述べる。

 

 

第1章 構造とは何か

構造(structure)とは何か。それは一言で言うならば「繰り返し」である。さらに正確に言えば「繰り返しの認識(perception)」である。

例えば、

ABA

のような単純な形式なら容易に繰り返しを認識できるが、

ABCDEFAGH…

のような場合はどうか。確かにAは繰り返しているが、距離が遠すぎるしそのタイミングで繰り返す必然性も見受けられない。認識としてはすなわち「羅列」と変わらないと言える。したがって、ただ何かを繰り返せば、もしくは偶然何かが繰り返されていればそこに構造が生まれるのではなく、鑑賞者の認識に訴えるような繰り返しの実施こそが構造を生み出すための鍵であるということがわかる。

ただし、この例のような羅列と変わらない構造であったとしても、繰り返しの認識を生み出す場合がある。それは、既にそれと同じ構造を持つ作品が存在している場合である。たとえ作品内部の繰り返しが認識できなくとも、もっと極端なことを言えば、作品内部に一切の繰り返しが存在しない場合であってすら、作品外部の影響によって鑑賞者は繰り返しを認識することになる。

作品内部の繰り返しによって成立している構造を「内側の構造(structure interne)」、別作品もしくは別作品群によって繰り返しの認識を生み出す構造を「外側の構造(structure externe)」と本論では呼ぶことにする。これは私独自の造語で音楽学・芸術学の学術用語ではない。

以上をまとめると、芸術の構造というのは、

①作品の内部で繰り返す
②作品の外部で繰り返す
③羅列する

このいずれかに必ず分類される、ということである。