おばあちゃんの思い出

母方の祖母が亡くなった。4月に89歳の誕生日を迎えたところだった。

父の父は僕の生後まもなく病死したが、他3人の祖父母は皆長らく健在だった。しかし2年前に母の父が亡くなり、去年父の母が亡くなり、そして母の母も亡くなった。こんなあっという間に祖父母が皆他界してしまうとは思ってもみなかった。

 

僕は典型的な「おばあちゃん子」だった。4歳のときに室蘭から札幌へ引っ越して以来、働く両親の代わりにずっと面倒を見てくれていたのがおばあちゃんだった。母の実家は山の上にあって、僕の家から歩いて1時間半ほどの距離だったが、平日は毎朝歩いて山を下って僕の家へ来て、一日中家事を一手に引き受けてくれていた。僕ら兄弟がおばあちゃんの夜ご飯を食べた後で母が帰宅し、車でおばあちゃんを家まで送っていくというサイクルが何年も続いていた。

もちろん父の母にも大いにお世話になった。けれどこれだけ僕の生活の中心にいた人だったから、僕にとって「おばあちゃん」という言葉は、母の母その人そのものだった。

 

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妙に茶目っ気のある人だった。僕が小学校3年生の春休みのある日、おばあちゃんの声で起こされた。
「了くん、タクミくんから電話だよー」
寝ぼけなまこで電話を受け取ると、ツーツーという音だけ。
「おばあちゃん電話きれちゃってるよ」
うっそー、エイプリルフールでしたー!
「……ええ!?」

騙されたことにではなく、まさかおばあちゃんの歳の人がこんなことをしてくるとは、と大いに驚いたのを今でもよく覚えている。呆気にとられるなんていう感情はこれが生まれて初めてだった。

 

小学校6年生のとき、僕は卒業アルバムの制作委員だったので、それの会議をうちでやろうということで、委員の女子二人と、もう一人の男子(これもタクミ)を家に呼んだことがあった。それを見つけるや否やおばあちゃんは、

「あら! 了くんガールフレンド連れてきてるじゃない!」とニヤニヤ声をかけてきた。
「ちちち違わい! ただのクラスメートだから!」とよくあるアホ男子の返しをすると、
「だってガールフレンドって女の子の友達って意味でしょ? なら合ってるじゃない。了くん知らないの?」と真正面から煽られてしまった。こっ恥ずかしかったが友人らにはその顛末がハマったらしく、「了三ん家のおばあちゃん相変わらずウケるわー」と翌日クラスで話題にされてしまった。

僕が友達を家に呼ぶと、家事で忙しいにもかかわらずとにかく世話を焼きたがる人だったので、友達からは「名物おばあちゃん」みたいな存在だった。
「了三のおばあちゃんめっちゃカツゲン(北海道限定の乳酸菌ジュース)くれるさ」
「了三のおばあちゃんいつもぽたぽた焼き(有名な甘いせんべい)出してくれる」などとよく言われた。小学生男子にとってはそんな風に言われるのも恥ずかしかったのだが、最後には皆「優しいおばあちゃんだ」と言っているのが、密かにうれしいことだった。

 

毎日歩いて山を下ってくるぐらいだから、とにかく体力があったし元気な人だった。スーパーに買い物をしに行くときは自転車を使っていたが、冬場の雪道でもお構いなく自転車に乗り続けた。「おばあちゃん危ないからやめて!」と家族が言っても一向に聞く気のない頑固者だったので、仕方なく自転車を冬用に毎年こっそり換装するようにした。本人はそのことにまったく気づいていなかったが、その後ずっと事故なく過ごしてくれたのは幸いだった。僕が冬道でも自転車に乗り続けていたのは、そのおばあちゃんの血を引いてるからかもしれない。

 

おばあちゃんは野球が好きだった。夜ご飯の準備をするときにはいつもラジオから野球中継が聞こえていた。なんで阪神ファンだったのか小さい頃全然わからなかったのだが、若いころに兄に連れられて野球を初めて見に行ったのが甲子園だった、というのが後に判明した。なのでそれ以来ずっと阪神ファンで居続けたのだが、新庄が入団して以来は、とにかく新庄にメロメロだった。「新庄くんまたホームラン打ったよ! あーかっこいいわあ新庄く~ん」と、その魅力を僕によく語っていた。なので、後に日ハムが北海道に球団移設して新庄がそこに入団するとなるや、あっさり阪神から日ハムファンに切り替わった。札幌ドームにも一度だけ一緒に野球を見に行って、生新庄を熱烈に応援したこともあった。僕が少年野球を始めると、「将来新庄選手みたいになれるといいね」といつも言っていた。「いやおばあちゃん俺キャッチャーだから」と返すのがお決まりの漫才だった。

 

僕が小学校5年生のときに、現在の実家の二世帯住宅へ引っ越した。つまり先ほどの卒アル制作のエピソードは新居に移ってすぐのことだ。これでおばあちゃんの負担がすごく減るし、これから毎日一緒に暮らせるということで、すごくワクワクしたのをよく覚えている。実際それ以降も変わらず僕と家族のお世話をしてくれていた。僕の高校は学食がなかったのでお弁当か購買のパンを買うかしかなかったが、おばあちゃんは3年間ずっと僕のお弁当を作ってくれた。まあメニューは同じものが多かったので多少飽きるなあという気持ちもなくはなかったが、それ以上にとてもありがたかった。残したことは一度もなかった。

 

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しかし同じ日々がいつまでも続くことはない。僕が大学に入る前後からおばあちゃんの足腰は少しずつ悪くなっていって、もう自転車にも乗れなくなった。それでもできる範囲で家事をしてくれていたのだが、母の定年退職以後はもうその必要もなくなった。そうなると途端に老け込んでいってしまって、一日中家にいてテレビを見ているような生活になった。最初は自分のご飯は自分で作るし身の回りのことも全部自身でやっていたが、だんだんそれも出来なくなっていった。数年前からデイケアーに通うようになって、食事はすべて母が用意する、という生活が今までずっと続いていた。

 

僕は大学を卒業すると実家を離れて、同じ市内だけど一人暮らしを始めた。それでも1か月か2か月に一度はおばあちゃんに顔を見せに行っていた。その時期ぐらいからおばあちゃんはマスクをするようになった。入れ歯が合わなくてストレスになるようで、食事のとき以外はずっと外しててその状態を見られるのが嫌でマスクをしている、ということらしい。もちろん母は歯医者に行って新しい入れ歯を作ってもらうことを提案し続けていたが、「いや、もうこれでいいんだ」と言って一向に聞かなかった。老いても頑固な性格は健在だ。

 

なのでここ最近の僕のおばあちゃんの記憶は、マスクをしていて、僕が遊びに行くと目元を綻ばせて喜ぶ顔だった。僕が小さい頃から、もう当時の可愛げなどすっかり消えてしまった今でも、ずっと僕を「りょうくん」と呼んでいた。話題はもっぱら昔話だ。もう何度も同じ話をしているけれど、その度に何度も感謝の気持ちを伝えてきた。

「りょうくんが保育園の頃は大変だったんだよ~。手を引いて歩いてる途中でしゃがみ込んで、「行きたくな~い!」ってぐずっちゃって。よくおんぶして連れて行ったわ」
「アメリカ旅行楽しかったね~。ナイアガラの滝と、グランドキャニオン。すっごくおっきかったね~。元気なうちにりょうくんと一緒に見に行けてよかったよ~」

この二つが定番で、これをひとしきり話した後で他の話題に移っていくような感じだ。もちろん話すテンポなんかは昔に比べてだいぶゆっくりにはなったが、話す声はマスク越しでも十分聞き取れるくらいはっきりしている。もともとお喋り好きで話す声も大きい人だったから、その元気がまだ残っているのは見ていて安心できた。

 

老人は皆最近のことよりも遥か昔のことを覚えているもので、おばあちゃんもその話をよくしてくれた。おばあちゃんは8人兄弟の末娘で、一番上のお兄さんの子供よりも年下だったというので、今時では考えられないその時代ならではの家族関係の話なんかは大変興味深かった。一年前には初恋の話も初めて聞いた。まさかそんな話の流れになるなんてまったく予期してなかったけれど、おばあちゃんは駆け落ち寸前までいった初恋の相手を船の難破事故で亡くしていたというのを初めて知った。あまりにも僕の知っているおばあちゃんの人柄とはかけ離れているように感じて、そんなドラマチックなエピソードがあっただなんてと、このときは本当に驚いた。まあしかしこういう機会でなければこんな話も聞けなかったよなあとしみじみ思った。そんな調子だから、僕にとってお年寄りを相手にしているという感覚はなく、ただただおばあちゃんと話すのが楽しかったのだ。

 

去年の春に僕がフランス留学を決めたことを伝えてからは、それも定番の話題になった。
「りょうくんフランスに行くんだよね。フランスってどんなところなの?」
「俺が行くパリっていう町は、古い建物が今でも残ってて、とても綺麗なところだよ。おばあちゃんと一緒に行けたらよかったんだけどね」
「いや、いいんだ。おばあちゃんもう歩けれないから。それにりょうくんとはアメリカ一緒に行ったしょ。楽しかったね~本当に行けてよかったよ~」
「そうだね。来年の夏には一度戻ってくるから。おばあちゃんもちゃんとご飯食べて、元気でいてね」
「りょうくん頑張ってね。来年また会おうね」
「まあまだ出発までしばらくあるから、またすぐ会いに来るよ」

そんな会話を何度か繰り返し、そして秋の出発前日にも同じ話をした。「来年の夏にまた会おうね」と。

 

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僕のパリ生活が始まってから、母とはLINEでたまに連絡を取り合っていた。そのたびに必ず僕は「おばあちゃん元気?」と尋ねたが、今年に入ってからは芳しくない知らせが続いていた。「もう歩くことは全くできないみたい」「この前検査入院することになった」というのを伝えられて心配になったが、本人はそれでも相変わらず元気だというのでホッとした。

「りょうくんに会いたいって言ってたよ」

このメッセージを何度母から伝えられたかわからない。「俺は元気でやってるから、おばあちゃんも元気でねって伝えておいて」と、これも何度母に伝えたかわからない。そんな日々を繰り返していたときに、いつものように母からLINEのメッセージがきた。フランス時間の深夜2時だったが、僕は起きていた。

「おばあちゃんが今朝亡くなった」

その瞬間、僕の中の時間は完全に止まってしまい、頭も身体も動かなくなってしまった。突然のことすぎて、自分の身の上に起こったことなのだと理解ができなかった。しかし母から「帰ってこれる?」と訊かれたので、すぐに飛行機を調べて「今日の便ですぐ帰る」とだけ伝えて、身支度を始めた。日が明けて昼頃に空港に向かう途中で先生方やルイにメールを送って事情を説明した。その中でもルイはすごく暖かい励ましの返事をくれた。異国の地でこんなにも素敵な友人ができたことを心から嬉しく思う一方で、それをおばあちゃんに伝えることはもうできないと思うと、悲しかった。

 

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翌日夕方に札幌に着いて、母の車ですぐに斎場へ向かった。母は僕の到着前におばあちゃんの湯灌を見届けたばかりだった。母もまだ全然心の整理がついていない様子だったが、経緯を話してくれた。先月末に血液検査で異常が見つかって検査入院をしていたのだけれど、想定していたよりは重い状態ではなかったので、すぐに退院する予定だった。そして退院日の前日深夜に異変が起き出血もしていたが、見回りの合間の時間だったので発見が遅れて、その後すぐに心肺蘇生を行ったが回復することはなかった。もしそれが昼間だったらすぐに対応できて状況は違ったかもしれないが、間が悪かったのだ。

だから本当に青天の霹靂だった。おじいちゃんのときも、父方の祖母のときも、お医者さんから「もう長くない」ということを事前に伝えられていたので、こちらも覚悟をしてからその日を迎えてきた。だけど今回はそうではない。まったくそんな予兆もなく、明日には退院してまたいつも通りの生活に戻ると思っていたのだ。だから母の動揺は尋常ではなかった。本当は車の運転なんてさせたくないほど、感情が不安定になっていた。

 

斎場には父が一人で待機していた。2年前のおじいちゃんの葬儀も、昨年の父方の祖母の葬儀も同じ場所だった。なんだかもうすっかり見慣れてしまったものだ。

母が棺の顔の窓を開けた。おばあちゃんの顔は、マスクがなく、目元は静かに閉じられていた。静かなおばあちゃんの顔を見ていると、どうしても僕と話していたときの笑った顔ばかりが浮かんできてしまった。

母は泣き崩れながらおばあちゃんに声をかけた。
「ほら、りょうくん帰ってきたよ。おばあちゃんどうして。あんなに元気で、りょうくんに会いたいって毎日言ってたじゃない。今5月だから、6、7、8月。あと3か月で会えるねって。楽しみだってずっと言ってたのに、どうして。どうしてもう少し待ってくれなかったの」

僕は何も声を発することができなかった。ただ棺の縁に涙がこぼれていくのを抑えることが出来ずにいただけだった。

 

 

一体何を悔いればいいのかわからなかった。真人間とは程遠い人生を歩んできて、成し遂げたといえることなんて何一つない。それなのに、そんな自分に会いたいと言ってくれている大切な人の願いさえ叶えられずに終わってしまった。

答えが一つしかないのはわかっている。
「これが人生だ。お前は死ぬまで己の分を果たす為に生きろ」
それはわかっている。もし他の誰かが僕と同じ状況にいたら、同じようにそう声をかけるだろう。それでも自責の念を完全に消し去ることなんて出来ない。そして、この自責の念の正体が何なのかも、わからない。

 

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葬儀は僕の一家と、母の妹の一家でささやかに行った。従兄妹2人と会うのはおじいちゃんの葬儀以来だ。従兄の奥さんは今回初めてお会いしたので、通夜の席で彼らと色々お話しできたのは楽しかった。談笑中に母が「封棺帯に皆でお別れの言葉を寄せ書きしようと思いますので、それぞれ書いていってください」と言った。各自色々考えながら書き始めたが、僕は前日ほとんど眠れなかった疲れがピークにきていて、全然まともに考えられるような状態ではなかったので、翌朝書くことにして一足先に会場の一室で床に就くことにした。

寄せ書きに何を書こうかぼんやり考えながら、すぐ眠るつもりで仰向けになって目を閉じた。しかし気が付くと幾筋もの涙の跡で顔中がベタベタになってしまっていた。誰かと話しているうちは平気なのだが、自分ひとりになると思いが溢れてしまって堪えられない。母には「ちゃんと寝ないとだめだよ」なんてしつこく言っておきながら自分がこの有様である。きっとしばらくはこういう日が続くのだろう。

 

結局この日も全然眠れず、翌日の告別式とその後の火葬を終えた。従兄夫婦は仕事のためすぐ東京へ戻るということで、僕が駅まで車で送っていった。実は彼らが来たときも僕が迎えに行っていたのだが、従兄の奥さんはとてもユニークな人で、初めて会って車中で3人で話しているのがとても楽しかった。おばあちゃんとはほとんど面識がないにも関わらず、忙しい中わざわざ来てくれたことは本当にありがたい。こういう時間をくれたのもおばあちゃんのおかげだ。また近いうちに会いましょうと言って二人を見送った。

 

涙を堪えきれず声が震えながらでも皆の前でしっかりと挨拶の言葉を述べ、喪主の務めを果たした母の姿は立派だった。これからしばらくは僕が傍にいることはできないけれど、自分に出来る形で孝行していかなくちゃなと思った。自分は自分の分を果たそう。おばあちゃんから受け継いだ、この人生を使って。

 

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寄せ書きにはこう書いた。

 

おばあちゃん、本当はもっと話したかった。もっと笑った顔が見たかった。もっと名前を呼んでほしかった。だから、今はとてもさみしいよ。
でも、おばあちゃんがくれた沢山の愛情を、今度は俺が、他の人たちに分け与えていくから、どうか見守っていてね。
ありがとう、大好きなおばあちゃん。