2024年9月8日、日本の囲碁の歴史に偉大なる功績が刻まれました。
囲碁「応氏杯世界選手権」一力遼 九段が優勝(NHK WEB)
日本の囲碁棋士、一力遼(いちりきりょう)が4年に一度の「囲碁のオリンピック」と呼ばれる国際棋戦、応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦で優勝しました。この通称応氏杯で日本人の優勝は初めて。日本の棋院に所属する棋士の主要国際棋戦優勝は2005年の張栩以来、日本人棋士に限れば1997年に世界囲碁選手権富士通杯で優勝した小林光一以来27年ぶりです。一力は今年27歳になりましたから、運命的なものを感じますね。(一応2013年に井山がテレビ囲碁アジア選手権戦で優勝しているが正式な主要棋戦とはみなされない模様)
それだけ聞けば囲碁ファンじゃない人は「まあ久々かもしれないけどそんなにすごいの?」って思われるでしょうけれど、そんなにすごいんですよ。当ブログでも過去に何度か「日本の棋士が国際棋戦で勝つことの難しさ」を述べてきましたが、数年前までは中国・韓国とのレベルの差は歴然としていました。わかりやすさのために失礼を承知で喩えるなら甲子園常連高校とプロ野球チームくらいの差がありました。わかりやすいか?
そんな中でも僕の愛してやまない井山裕太は国際棋戦でかなりの好成績を収めていて、出場のたびに全力応援してきましたが、本当にあと一歩というところまでは来れるんですが、なかなか優勝まではつかみ取るのが難しい状況でした。
しかしここ数年で状況は一変し、今回の一力を筆頭に、井山の後輩たちがどんどんと世界戦で頭角を現し始めました。女性棋士でも上野愛咲美をはじめ、現在韓国リーグで大暴れしている仲邑菫などが大活躍しています。そしてついに日本人が国際棋戦で優勝するまでに至ったわけです。いやー本当に感慨深いですね。
この一力遼という男、Wikipediaを見てもらえばわかりますが、河北新報社の創業者一族の御曹司なんですよね。さらに中学生でプロ棋士になってから早稲田大学へ入り、卒業してからは新聞記者の仕事をしながら囲碁のタイトルをどんどん獲得していき、ついに世界一になってしまったという。マジでなんなのって舌打ちしたくなるヤツなんですが、実はすごく熱い魂を持ってる人間なんですよね。この画像でもわかりますが、彼は世界戦に対する強い思いを幼少期の頃から秘めていました。
彼が小学校5年生のときに韓国との親善交流で囲碁の対局があったのですが、彼だけでなく日本の子供たちが惨敗した後で、「先生、日本が強くなるにはこれからどうすればいいんですか」と泣きながら訴えたというのは有名なエピソードです。プロになってからも国際棋戦に対する思いは人一倍強く、世界トップの棋士と互角の接戦を繰り広げたとしても、負ければ本当に悔しそうに反省している姿を何度も見てきました。
特に昨年のアジア杯ではナショナルチームの一員として参加し、団体戦で勝ち抜くための体制づくりのために様々な提言を行ってきたといいます。それくらい、「日本が強くなる」ための貢献を惜しまない人物なんですね。こんなの応援せずにいられますか。僕にとって井山は特別な棋士ですが、一力もまた愛すべき棋士の一人です。同じ「りょう」の名前を持つ人ですしね。(対局の画像を見る限り簡体字だと彼の名前は「しんにょうに了」と書くらしい)
今回の一力の優勝を陰で支えていたのが許家元(きょ・かげん)です。今回の大会が上海での開催なのでもちろん通訳が必要になってくるわけですが、一力からの強い要望により許家元が帯同することになったようです。ベスト16の段階で残っている日本人が一力だけだったのもあり、その時点から決勝にいたるまでずっと彼が帯同していました。
そもそも許家元自身が一力に並ぶトップ棋士であり、同い年で仲もよく、対局の前日には一緒に布石の研究をしていたとのことですから、もはや通訳を超えたパートナーと言えるでしょう。「通訳を超えたパートナー」というフレーズを聞くと我々は謎の頭痛が起きますが、それはさておき一力にとって本当に心強い存在だったと思います。しかしまあ、彼の支えになりたいと思わせるのも、やはり一力の人柄なのでしょう。
一力の師匠である宋光復が現地で応援していましたが、対局が終わった瞬間に彼は手で顔を覆って涙していました。小さい頃から面倒を見ていた師匠からすると、どれほどの思いが胸にこみあげてきたのか、想像できませんね。左下のツーショット写真もとても素敵です。
さて、NHKのニュースでは「相手の隙を見逃さず一気に逆転」と報道されたこの対局が一体どんな内容だったのか、当日日本棋院のYoutubeチャンネルで生放送された映像とともに追ってみましょう。
左上の碁盤が現局面、右下が検討図、右上が日本棋院で解説をしている棋士たちです。今回メインで解説をしているのが真ん中の蘇耀国で、いろいろなゲストが入れ替わり登場する格好です。中央に表示されているのが日本棋院の中継で採用されているAIの評価値です。
午前中は難解ながら互角の展開が続いたんですが、昼休憩明けて謝科の放った中央のハネで評価値が一気に黒に傾きました。一力がここでちゃんと時間を使ってこの後見事な応手を打つのですが、この判断力は本当に見事ですね。中国の方の中継でも一力の打ち回しを称賛していました。
その後、蘇耀国の親友である林漢傑がゲストに登場。彼の表情を見れば一発でわかるとおり、これはかなり一力がイケるんじゃないかというムードでした。ここまでは。この局面で一力が20分弱も考えていたんですね。リードしているとはいえあまり時間を使いすぎるとマズいわけで、蘇耀国もかなり心配していました。
そして囲碁というのは不思議なもので、時間を使って打つ手は事件が起きやすいんですよね。
この一手でとんでもない逆転を食らってしまいました。林漢傑の表情がすべてを物語っています。これだけで勝負が決まるというほどではないにしろ、ほぼ楽勝だった局面が一気に劣勢にまで持ち込まれたのはあまりにも痛い展開です。この後もしばらく劣勢の状況が続いて、好転する気配が見えません。
この日は日本棋院の大盤解説会場でも解説会をやっているので、林漢傑はそちらへ移動。難解な局面を蘇耀国が見事に解説してくれています。
蘇耀国「この黒のケイマに対して白がどう対応するかで、この碁のすべてが懸かっています。ここで黒がなにか上手いことをやらなくちゃいけない。(コメント欄を読んで)そうだね、まさに「最後のお願い」だね」
囲碁というのは優勢な場面を勝ち切るのが本当に難しいゲームです。その瞬間が訪れる直前に林漢傑が戻ってきました。
蘇耀国「え! 白ツいだ!?」
林漢傑「おおお? 中国の解説も戸惑ってますよ。きたんじゃないこれ!」
蘇耀国「これこの後の黒のツケに対しての対策がないからね。止まらないですよこれ」
ホイホイホイと煽る林漢傑。さらにその後……
蘇耀国・林漢傑「「コスんだ!? おぉぉおお?(裏声)」」
蘇耀国「ヨレヨレじゃない?」
林漢傑「またツケコしたらどうすんだ、ダブルツケコシ」
蘇耀国「こうやってこうやって、これでいけるんじゃない」
林漢傑「あ、ツケたツケた! 勝率見て!!」
いや囲碁の中継でハイタッチを交わしてるのは初めて見ましたね。でも気持ちは実によくわかります。聞くところによると、先ほどまで完全なお通夜ムードだった大盤解説会場がこの瞬間沸き立ったらしいです。自分も行きたかったですねー、たぶん叫んでたでしょうね。どうですか、囲碁ってこんなにエキサイティングなんですよ。
とはいえこれもやはりAIの評価値のおかげなのは間違いないですね。今回の中継のチャット欄でも「難解な局面では評価値は全然アテにならない」なんてコメントがあってそれは確かに事実なのですが、それでもそこに一つの明確な見方が提示されるというのが本当に大きなことなんですよ。AIには答えを求めるのではなく、結果として参考になるかならないかの判断も含めて参考にする、というのが現時点でのAIとの適切な付き合い方なのではないかなと思いますね。分野を問わず。
この後も簡単ではない局面が続きますが、一力は優勢をしっかり保ったまま、ついに相手の投了の瞬間を迎えます。
昼休憩含めて9時間弱、長い旅でしたね。この瞬間は僕も部屋で一人、拍手を打ち鳴らしていました。もちろん、大盤解説会場は大フィーバーです。
勝利の瞬間、飛び跳ねて喜んでいるのは『ヒカルの碁』の監修でおなじみの由香里先生です。右にいるのが今回の解説棋士で冒頭でも名前が出てきた張栩です。いやー本当にこの瞬間の会場にいたかったですね。日本の囲碁界、囲碁ファン全員が一体となって勝利の喜びを祝う。これぞ将棋にはない、囲碁の国際棋戦ならではの醍醐味であると僕は強く力説したいです。
それに皆さんお気づきですか。この記事でここまで登場した人物の半分は日本人ではないんですよ。中国・韓国・台湾をはじめ様々な国の人たちが日本の囲碁界を支え、そして日本人の勝利を我がことのように喜んでくれているんです。素敵な文化じゃあございませんか。Youtubeのチャット欄でも中国語、韓国語の祝福のコメントがたくさん届いていました。
こうして日本の、そして世界の囲碁史に残る瞬間に立ち会えたことを心から嬉しく思います。一力、おめでとう。あんた男だよ。
実家の北海道新聞にも記事が載っていました。僕としては紙幅が4倍足りねえんじゃねえかと言いたいのですが、これはこれで永久保存にさせて頂きます。
今回の記事を書くにあたりいろいろネット上を探していたらこんなものを見つけてしまい、つい浮かれて買ってしまいました。(1800円)
いやーこの棋聖戦は本当に激闘だったんですよね。第6局まで全て白番中押勝ちというシリーズで、最終局で井山が白を握ったのですが、最後の最後に一力が黒番で勝ちました。井山の応援をしていた僕としてはかなりショックが大きかったのですが、今思えばこのときから一力はもう世界王者への覚醒が始まっていたということですね。
しかしまだまだ後輩に席を譲るのは早いです。井山、世界を獲ってくれ!!