Algomuze——新しい視聴覚芸術の創出についての一案

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第5章 芸術の3文脈

全ての創作芸術に共通する、「真に価値のある作品」を目指す上で重要な「3つの文脈」が存在すると私は考えている。

・歴史的文脈
・技術的文脈
・社会的文脈

まず歴史的文脈とは、その分野における歴史的変遷とその作品がどのように関わっているか、という文脈を指す。例えば音楽作品ならば、音楽史の変遷の中で現在はどのような歴史的課題があるのか、その解決のためにどのような新しい表現・革命が必要なのか、1000年後から今の音楽史を振り返ったときに歴史的必然性があるのだとすればそれは何なのか、そういったことに対する答えが作品の中に盛り込まれているかどうか。これが歴史的文脈である。重要なのは教科書的な歴史変遷の見方ではなく、その人独自の歴史観によって導かれた答えかどうかということだ。そうでなくては面白くない。

次に技術的文脈とは、その分野における技術的発展、もしくは人間社会全体の文明的な技術の発展とその作品がどのように関わっているか、という文脈を指す。例えば音楽作品ならば、楽器の進化(進化という単語に抵抗があるならば変化と言ってもいい)や発明、新しい音響機材、新しいプログラムやアルゴリズムなど、そういったものとの関わりが作品の中に盛り込まれているかどうか。これが技術的文脈である。重要なのは単に最新技術を作品の中で利用しているかどうかではなく、その技術そのものに対する創作者の思想・哲学が作品の中に反映されているかどうかである。

最後に社会的文脈とは、現代の人間社会の抱える問題や、創作者が社会をどのように見ているかという視点とその作品がどのように関わっているか、という文脈を指す。くれぐれも注意しておきたいのは「政治的文脈」ではないということだ。政治性を標榜する作品の99%は芸術的に碌なものではない。ピカソが『ゲルニカ』の下絵から完成に至るまでに何を削除したのか。その判断があの作品を不朽の名作にしたのだということをよくよく知る必要がある。社会・流行・風潮、そうしたものに対する創作者の思想が作品の中に盛り込まれているかどうか。これが社会的文脈である。

以上の3つの文脈を、Algomuzeが全て満たしていることを以下で説明する。

 

まず歴史的文脈については、第3章までに述べてある通りである。「クラシック音楽の黄金の時代はソナタ形式の文化によって支えられており、その崩壊と共に文化も衰退していった。それに匹敵する文化を再び創るためには、内側の構造の研究を深め、それがやがて文化として強固な外側の構造を獲得するような可能性を内包した表現形態を生み出す必要がある」というのがAlgomuzeの理念である。歴史的文脈についてはこれ以上付け加える必要は何もない。

 

技術的文脈については二つある。一つ目は「未来の芸術表現への応用可能性」である。現在研究が盛んで将来的に新たな芸術表現を必ず生み出す分野が、VR(仮想空間)技術と空間立体投影技術であると私は考えている。Algomuzeの本質は「映像と音との組み合わせ」ではなく、「視覚情報と聴覚情報の組み合わせ」である。視覚情報の媒体がモニター上の映像である必要はないし、聴覚情報の媒体が固定されたスピーカーである必要もない。現在の我々の技術ではなかなか想像が難しいが、何もない空間上の任意の座標から自由に音声出力ができるような技術が将来生まれるかもしれない。そうすれば、空間投影された視覚的アルゴリズムと音声出力の位置を完全に同期することが可能となる。それはまるで魔法を使った芸術のように思えるだろう。それが実現できるのは私の死後遥か未来のことだったとしても、仮想空間上の任意の座標からの音声出力を、バイノーラルヘッドフォンで擬似的に再現することは、それほど時間がかからずに実現可能に思える。いずれにせよ、空間表現の芸術とAlgomuzeは非常に相性が良いことがわかる。

二つ目は、「人工知能(AI)と芸術」である。分野を問わずこれから新たに芸術活動をしようとする人間は、「AIとどう向き合うか」という問題に対する回答を必ず用意しなければならないと私は考えている。それほどに現代を生きる我々にとって不可避的で重要なテーマだからである。話をわかりやすくするために音楽に限定するが、もしあなたが「私の作品は十分個性的だからAIの進歩とは関係がない」と考えているなら、それは幻想である。AIはあなたの個性を模倣できるし、仮に模倣が器用にできなくとも、あなたの作品より優れたポエジーを実現できる。AIが人間の感性を超えられないという時代は数年前に終わった。ポエジーしか拠り所のない作品は、全てAIによって代替可能だという認識を持たなくてはいけない。「自分の給料が貰えるならAIが模倣しようが構わない」と考える人がほとんどだろう。しかし、「AIには実現できない作品を作りたい」と思うなら、ポエジーではない論理的な戦略が必要になるというわけだ。

私の知見からすると、AIがAlgomuze作品を作るのはほとんど不可能に近いレベルで難しいと思われる。まず第一に視覚情報と聴覚情報の従属関係を判定するロジックが非常に難しい。ある視覚オブジェクトを使えば必ず音を従属させるというわけでもなく、ある音声情報が必ず視覚オブジェクトを従属させるという法則もない。従属関係は素材の特性や組み合わせだけでなく、前後関係や提示時間による影響が大きく、最終的にそれを判断するのは人間の「感性的推察」と「論理的推察」の両方である。さらにそれらを合成したときの従属関係の判定までしなくてはならないとなると、AIが越えなければならない壁がいくつあるのかわからない。もしAIがその壁を安易と越えるようになったのならば、すなわち人間の認知領域がほとんど解析し尽くされたことを意味するのであって、そのときにはもう他の芸術領域はとっくにAIが蹂躙しているだろう。かつて「AIが人間を超えるのが最も難しい領域」とされていた囲碁は、2016年にAIとの対決に敗れた。私はあと百年間、AIが越えられない壁としてAlgomuzeを設計したつもりだ。

 

最後に社会的文脈については、「スマートフォンとコンテンツ過剰供給の時代」がテーマである。1979年にソニーのウォークマンが発売され、誰でも安価にオーディオ機器が購入できるようになって以降、人間社会にとって「全ての音楽が劇伴化(BGM化)する」という運命は不可避のものとなった。それが意味するのは音楽が「ながら作業」のお供になったということである。人と話しながら、食事をしながら、寝ながら音楽を聴く。音楽はもうそれ単独で向き合う対象ではなくなっていった。そして現在はウォークマンを完全に上回る機能を持ったスマートフォンがそれにとって代わったことで、「ながら作業」のお供は音楽からスマートフォンそのものへ移った。人と話しながら、食事をしながら、寝ながらスマートフォンを触る。我々はもうスマートフォンなしでは生きていけない。仮に20年後にスマートフォンというデバイスそのものが消え去るとしても、いつでも最新情報とSNSにアクセスできるデバイスは今後永久に無くならないだろう。ながら作業による「効率化」という麻薬を人類に与えたスマートフォンは、我々から時間と集中力を奪い去っていった。

それと呼応するように、コンテンツ過剰供給の時代もやってきた。サブスクリプションというシステムは我々に「無限」のコンテンツを与えた。それらのコンテンツを消費するには人間の人生はあまりに短すぎる。そこでやはり「効率的に」コンテンツを消費するために、映画やアニメの倍速視聴が平然と行われるようになった。我々は今や、2時間の映画を1時間以下で見ながら、同時にスマートフォンで他者とのコミュニケーションも途切れさせることはない。実に効率的に生きている。わざわざその効率を落としてまで、何かたった一つの物事に集中する必要がどこにあるのか?

 

さて音楽に限定して話を進めるならば、これは文化の形態の変化を意味するだけで、良し悪しで語れるものではない。「全ての音楽が劇伴化する」ことの何が悪いと言われれば、それに対して反論しても無意味である。しかし、少なくとも現代音楽作曲家にとってはそれでは困るはずである。なぜなら彼らは聴衆に集中を、場合によっては長時間の集中を要求しているからである。にもかかわらず、現代の社会状況に対しての危機意識を「作品を以って」表明している現代音楽作曲家を私はほとんど見たことがない。彼らは自分の作品は高級な教養を持った人間にだけ理解されればいいとでも思っているのだろうか。自分の作品を聴きにくる聴衆だけは例外だとでも思っているのだろうか。それは幻想である。我々は「例外なく」音楽に対して集中する能力を失っているのだ。そして無限に溢れるコンテンツの中で、敢えて現代音楽を選んで新作を積極的に聴きにいく人間が今後増えていく可能性は? 限りなく0に近い。

もちろん今でもライブハウスを満員にするロックバンドは山ほどあるし、クラシック音楽を聴きにコンサートホールへ足を運ぶ人もたくさんいる。もし彼らが音楽に対する集中力を失っているのだとすれば、彼らが音楽に求めているものとは何か? それは「熱狂」である。音楽の持つポエジーにはそれだけの魔力がある。そして、個人の音楽習慣を背景にしながら、その瞬間の音楽的刺激によって人間の脳内で勝手に生成されるポエジーは、作品や演奏そのもののポエジーよりも遥かに強力である。

 

以上のことから私が導いた結論は、「集中と熱狂」である。今となっては音楽が人間の集中力を取り戻すには、熱狂を伴うしかない。そして熱狂を聴覚情報だけで生み出すのは極めて難しい。したがって視覚情報が必要なのであり、また創作者と鑑賞者との「遊戯的な」コミュニケーションが必要なのである。そして何より、「外側の構造」が強固でない文化に、人々が熱狂することは絶対にない。

音楽が持つ魔力はポエジーだけではない。集中した先に見えてくる「内側の構造」もまた、音楽の魔力である。「集中と熱狂」、これこそが今の音楽に求められている最大の命題である。Algomuzeはそれを実現するための最適解の一つであると、私は確信している。