齋開化陣営の謎
齋開化(いつきかいか)という人物、そして彼の周りにいる人たちについても結局最後まで明かされることはありません。まずは第3話で野丸が初めて「新域構想」というのを明かす場面を見ていきましょう。
野丸「この日本で出来ないこと全てだ。新域とは新法の試験的運用を行う特別行政区、いわば国家の実験場だ」
新薬承認、建設規制、新たな労働基準法制定、そういった現実には解決困難な問題を一気に片付けるための「新域構想」を、与党も野党も関係なく様々な団体が支持し、その票田をコントロールしていると野丸は言います。そして野丸自身は新域の域長になる気はなく、それを齋開化に譲ることも明かされました。
問題はここからです。票田をコントロールするための買収工作を正崎の上司である守永が認めたために正崎は激昂したわけですが、結局「新域構想」の具体的な中身が何も語られないので、守永の言う「これが正義だと思っている」という言葉が非常に軽い、空虚なものになっています。「法を正義と信じて疑わない正崎」と「法を超えなければ実現できない正義を為そうとしている守永」という対立構造を描いてはいますが、まともな物語、つまり表バビロンを真面目に描こうとするなら、なぜ現在の法制度の中で解決するのではなく「新域構想」でなければいけないのかを示すのが必要不可欠です。でなければ「法を超えた正義」の説得力が皆無ですから。
さて、そろそろこのパターンにも慣れてきたかと思いますが、作者・制作者は新域構想の中身を描く能力がないのではなく、最初から描く気がないのです。つまり、裏バビロンなら問題ないのです。真に描きたいのは「法を超えた正義」などではなく、対立構造そのもの、そしてその構造がやがて裏切られる展開、それだけなのです。
問題はまだ続く、というよりここからがむしろ本題ですが、正崎が守永に曲世の2枚の写真を見せたところ、これが同一人物であると言うではありませんか。さらに守永・野丸・齋開化陣営はその存在を既に知っていて選挙工作に利用していたということが判明します。守永いわく「もともとは齋が連れてきた女だった」ということなので、全ての始まりは「齋開化と曲世の繋がり」なのですが、これもやはり最後まで描かれません。
この「齋開化と曲世の繋がりを描かないこと」が、「自殺法の中身を明かさないこと」と並んで表バビロンにおける最大の目くらましになっています。齋開化が曲世のエスパー能力を知っているのは明らかですが、ではなぜ齋開化と曲世が手を組んでいるのか。齋開化がもともと持っていた自殺に関する思想に曲世が共鳴して協力するようになったのか、逆に曲世という悪に齋が「開化」されたのか、はたまた最初から齋開化は曲世に操られていたのか、可能性は無限にあります。
表バビロンならそれを描かなければ明らかに物語として「未完成」の烙印を押されてしまいますが、裏バビロンならそれを描いても描かなくてもいいんです。なぜなら全てはフレーバーだからです。物語を成立させる上で必ず描かなければいけないことを省略してもいい、それこそが「微分不可能な物語」の最大の発明であるとも言えます。
神か悪魔か曲世愛
分析の最後はいよいよ本丸、曲世愛(まがせあい)というキャラクターについてです。インタビュー記事(資料1)によればそもそも担当編集が野﨑まどに「究極の悪ってなんなのかを考える小説はいかがでしょう」と提案したことが『バビロン』の始まりらしいので、これをどう描くのかが作品の肝であることは間違いないでしょう。
曲世のキャラクター造形における最大の問題点は人間として描かれていないことです。なぜ養子という設定になってるのかといえば、彼女が地球人なのかどうかもわからない、超常の能力を持ったエスパー・ウィルス・悪魔・神のような存在だからです。つまり彼女の思考の筋を読むことが全くできないわけです。
彼女の叔父から幼い頃の曲世のエピソードを聞く場面がありますが、そのときから既にエスパーとして語られるので何の参考にもなりません。例えばこれが、ある時期から突然、もしくは徐々に自身の能力について自覚を持ち始め、それに対する葛藤のようなものが描かれていればキャラクターを読み解くヒントになりうるのですが、そういったものは一切ありません。なので先述の通りなぜ齋開化と手を組んでいるのかもわかりませんし、最終的に何がしたいのかも何もわかりません。
「そんな荒唐無稽なキャラクターを使って面白い物語が作れるのか」
それは表バビロンの理屈ですね。そんなのを登場させてしまえば全てが御都合主義になってしまうし、他の要素を真面目に作っていればいるほどその落差で一気に作品をぶっ壊す可能性を秘めた、まさに最悪の存在です。しかし裏バビロンならむしろ最善のキャラクターです。なんでもありだからどんな展開にも対応できるしどんな能力を加えたっていい。そもそも作品自体が(一般的な観点で)まともに作られたものでないことは散々これまで述べてきた通りで、破綻の連続で紡いでいく物語においてはむしろ歓迎すべきキャラクター造形です。
いくつか重要と思われる曲世のセリフを並べてみましょう。まず第2話初登場の場面。
曲世「正崎、善さん。正しくて、善い……」
正崎「私の名前がなにか?」
曲世「あ、いえ。ご両親はどんなお気持ちで、このお名前をつけられたのかしら、って」
同じく2話の後半。
正崎「ああ……」
曲世「では子供を殺すことは?」
正崎「っ! 悪いに決まっている! なんなんだ君は、人殺しが悪じゃないとでも言うのか!」
曲世「まさか。人殺しはとても悪いことだわ。一番悪いこと。そう、最悪です」
先述の通り曲世の内面を読み解くことは不可能、というより意味がないのですが、表バビロンにおける僕なりの一番面白くなりそうな解釈を述べると、ここでもう曲世が正崎に人殺しをさせるということを思いついた、という説ですね。
悪を自認している曲世にとって、正崎の名前は胸に響くものがあり、愉快(あるいは不愉快)な気分になった。「名前も知らない人と恋に落ちることだってあるわ。あ、でも、検事さんのお名前は知ってしまったから、証明はできないですけど」なんて言ったりもする。そしてその後の会話で彼が名前通りの、からかい甲斐のある「正義の人間」であることがわかると、ふと思いついたわけですね。「人殺しが最悪なのだとすれば、絶対に人殺しをしたくない人にそれをさせることは、最悪を超えた最悪なのではないか」と。さらに言うなら、自分の能力を行使することなく、彼の純粋意志によって人殺しをさせられるなら、なんという愉悦だろうかと。
本当にこの説を採用して真面目に物語を展開するなら、それはそれで面白くなりそうだと個人的には思います。実際はどうかというと、アメリカ編の正崎の行動を曲世が計算し尽くしているというような描写はないので、まあこの説は『正解』ではないでしょう。「カナダで自殺法を認めさせればFBIが動き、FBIなら正崎に直接接触しに来て、そのときに正崎が自らを調査チームに加え入れろと頼むだろうから、これでアメリカへ連れて来ることができる」というのはさすがに桶屋が儲かり過ぎてるでしょうからね。
ただ、第8話で曲世が正崎に卵を送りつけたりしているのが何故かと問われれば、「正崎を焚きつけるため」以外の答えが僕には浮かびません。
続いて第5話。電話越しの会話。
曲世「ご存知かしら? ロールプレイングゲーム」
正崎「ああ、知っている」
曲世「ゲームの中で、私は勇者になります。魔王に支配された世界で、勇者はほんの数人の仲間とともに、時には一人っきりで、魔王の軍勢に立ち向かうの。世界を救い、人々を幸せにするそのために。なのに、支配された民衆は誰一人として魔王に立ち向かおうとしない。勇者は世界を救うために、命がけで戦っているのに。
それでも勇者は世界を救うの。誰も助けてくれなくても、誰もわかってくれなくても。ただ人間の幸せのために。正崎さん、そういうものに、私はなりたいの」
第7話、陽麻の惨殺直前のシーン。
曲世「正崎さん聞こえてる? ねえ、勇者のお話、覚えてらっしゃるかしら。民衆が誰も助けてくれなくても、誰もわかってくれなくても、たった一人で世界を救う、勇者のこと。でもね正崎さん、それ以上に素晴らしいことがあるの。それって何かわかります?
それは、勇者の夢や気持ちが、民衆にもわかってもらえること。みんながわかってくれて、みんなが助けてくれて、みんなで一緒に世界を救うの! それって、一番素晴らしいことじゃありませんか? 私、わかってほしいんです、正崎さんに」
最初は「誰もわかってくれなくていい」と言っていたのが、「正崎さんにはわかってほしい」に変わっています。なぜ曲世は心変わりしたのか?
これも先ほどの説に立つならば、心変わりなどではなく単に正崎を惑わすためだけの言葉ということになるでしょう。最初は「人殺しをしている自分こそが正義かのような口ぶり」で正崎を苛立たせ、次に「やっぱり人殺しは悪いことだ。だけど悪いことが好きな人間もいる。互いの価値観を尊重すべきだと正崎さんが言うのなら、私のことも理解して」と言い、同時に陽麻の惨殺を見せつけることで正崎に呪いをかけているわけですね。「正義の人」の目の前で人を殺すならば、どちらの態度がより効果的だろうかという計算のもとに。
曲世の言葉には思想もなく、感情の発露もない。ただただ正崎という人間の根幹を揺さぶるためだけに並べられた言葉を作品のテーマであるかのように仕立て上げているところが、ある意味で言えば『バビロン』の巧妙な手口と言えるでしょう。
さて、聞くところによれば、どうやら原作ではラストで正崎が大統領を射殺するのではなく、大統領が結局自殺してしまうようですね。これは物語の意味合いが大きく変わってきます。原作者がアニメ制作に協力しながらアニメ版でその変更を認めたということは、やはり先ほどの説かそれに近いようなキャラクター性を曲世に与えようとした、という証左なのではないでしょうかね。仮にそうだったとしてもアメリカ編の出来が悪くてうまくいっていないのがこの作品の最大の問題点なんですけどね。そうしたところを踏まえてまとめに入りましょう。
アニメ化の是非について
そもそもなんでこの『バビロン』という作品をアニメ化したのかについて考えてみましょう。
野﨑まどの原作は3巻まで出ていて3巻のタイトルが『終』となっているものの、その次の第4巻で完結する予定、らしいです。インタビュー記事(資料1)を読むとアニメ化前にはその第4巻が刊行される予定だったということですから、「アニメ版は尻切れとんぼの終わり方だけど続きは原作を買ってね」的な戦略だったのでしょう本来は。残念ながらアニメが終わった今もなお最終巻が果たして出版されるのかは未定ですが。
今作のチーフプロデューサーでもあり製作ツインエンジンの代表でもある山本幸治の企画に対し、野﨑まどの担当編集である河北壮平が「正気ですか」と聞いたらしい(資料2)ですが、第7話でのグロテスク描写をやるかどうかはさておいて、この作品をアニメ化したときに視聴者がどのような反応を示すかはある程度予想できて然るべきでしょう。
これまで書いてきた通り、この作品のテーマが「自殺」や「正義と悪」であるなんていうのは見せかけです。あくまで根本にあるのは「微分不可能な物語」です。これも先述した通りこの発想はどちらかと言えばアート分野に近いものであって、エンタメ向きではありません。なぜなら非常に反感を買いやすい手法だからです。
物語の破綻にはいくつか種類がありますが、中でも「突然ジャンルを超越する」タイプのものは、見ている側が一番「裏切られた」と感じやすいものでしょう。
「ミステリーだと思ったらファンタジーだった」
「恋愛ものだと思ったらホラーだった」
こういうのが一番「ふざけんな!」と言われやすいということです。特に前者のファンタジーオチというのは古来より既にデウスエクスマキなんちゃらと名付けられているくらいですから、それは作者の力量不足と捉えられても仕方ないことです。
そしてアニメ化企画にあたってまず懸念すべきことは、我々は既に『正解するカド』を知ってしまっているということです。「微分不可能な物語」という手法は既に『カド』で試されているのであって、さらに『バビロン』が極めて近い失敗を犯してしまっていることはおそらく原作の段階で明らかになっているはずです。
『カド』を見た人は『バビロン』の原作が野﨑まどであるということを知った瞬間にまず身構えたでしょう。現に僕自身も、このシーズンの第1話評価まとめでカドのトラウマについて触れています。僕自身の『バビロン』評は最後にしますが、世間的な評価としては概ね、「バビロンは結局カドと同じ種類の駄作だった、二度と野﨑まどは信用しない」というものでしょう。
こちらのブログの記事(”Notice” homla’s blog)で、原作『バビロン』についての酷評が書かれていますが、少し引用(強調ママ)すると、
としたら、バビロンは最後にしましょう。バビロンが最初だったら多分他の
野崎まどの本を読まないような気がするからです。
とのことです。作者の作品をまったく読んだことがない僕が言うのもなんですが、それでもこの意見が「野﨑まどのファンの一般的な意見」であるという想像くらいはつきます。残念なことに僕自身は『カド』と『バビロン』といういわゆる最悪のルートを辿って野﨑まどに触れてしまったので、まさしくこのブログの筆者の言う通り、今後も野﨑まどの作品を読むことはないでしょう。そして、それは僕だけではなく、多くの人が同じ状態になってしまったというのが重要です。
プロデューサーという立場なら、『バビロン』をアニメ化したら世間的な反応は大体このような感じになり、また作家野崎まどの信用を落とすリスクが極めて高いことくらいは予想して然るべきです。にも関わらずアニメ化を推し進めたということは、「そのリスクに見合うだけの何か」があるという判断を下したという意味なのでしょう。それが一体なんなのか。
僕自身の考えとしては、「微分不可能な物語」は確かにエンタメ向きではないのですが、しかしシリーズアニメとの相性が実は良いのではないか、と思ってはいるんです。なぜなら小説と違って1話ごとの区切りが存在するからです。先述した通り、現に『バビロン』は第1話でミステリー、第2話でサスペンス、第3話でポリティカルフィクションと、うまく物語を変容させています。そのようにしてシリーズ12話全てが違う顔を持つ十二面相のような作品が実現できたとしたら、それは過去に例のない新たな表現を生み出す可能性が十分にあると僕は思います。
だとすれば一体何が問題なのかというと、それは第7話で発覚した曲世のエスパー能力ではなく、むしろ第8話以降のアメリカ編です。前に定義した裏バビロンでは、この第8話以降完全に物語がストップしているのです。「ファンタジー化した」というのがオチになってしまった『カド』の反省を活かして、ファンタジー化以降もさらに「微分不可能な展開」を重ねることができたのなら、これは名作になる可能性もあったのになと思ってしまいます。
いきなり正崎がFBI入りするというのはいいんですが、結局ただ舞台が変わっただけで、それまで大荒れだった波がここにきていきなり凪いでしまったので、大きな停滞感を感じてしまいます。さんざん時間をかけて引っ張った結果が「真剣10代しゃべり場サミット」かよというのは本当に肩透かしでしたね。「善いとは何か」という問いに答えを与えることなんて、この作品にとって全く重要でないことはここまでの展開で明らかなのに、そんなことになぜ時間を割いてしまったのか。
「微分不可能な展開」を具体的に考えるのは僕の仕事ではないのですが、まあ例を挙げるとするなら、曲世の脅威を認識した世界の首脳たちが一丸となって曲世に立ち向かう「シン・マガセ」とか、曲世は本当に宇宙人で母星から地球へと追放された存在だったが、あまりにも暴走が過ぎるので同じ能力を持った別の宇宙人がやってきて曲世を止めるべく戦う「マガセまつり」とか、そういうのでいいんです。なんじゃそりゃと思われるかもしれませんが、ここまでやらないとむしろ前半部との釣り合いが取れていないのです。要するに「最後まで暴れまわってみせろ」ということです。曲世がじゃなくて、筆者がです。曲世が暴れて終わってるからつまらないオチになってしまったんです。
本項の冒頭で「アニメ化と同時に最終巻が刊行される予定だった」と書きましたが、実はそれも怪しいと思っています。というのは、「作者は第3巻、つまりアメリカ編が失敗していると自覚しているのではないか」と疑っているからです。本当に刊行予定だったら原作とアニメ版と、オチを変えたりしますかね。もし続きを書いたとしても、それはアニメ版の続きにはならず、別の物語なわけですから。もちろん原作とアニメ版が大きく違う作品は珍しくないですから、そういうのがあってもいいとは思いますが、今回に関しては怪しい気がします。作者は既に最終巻を諦めているのではないか。
なのでラストで正崎が大統領を射殺し、そこに曲世が現れて「悪いんだぁ」と言わせれば、まあそれなりにまとまったオチにはなります。ですが、ある程度まとまりをつけたところで表バビロンの破綻が解決したわけでもなく、裏バビロンの失速が解決したわけでもない、つまりどっちにしろ中途半端な結果になるのは避けられなかったわけです。
リスク以上に「微分不可能な物語の実現」に可能性を見出した企画、ということだったらある程度賛同できますが、結局第7話の惨殺シーンが描きたくて、
(山本幸治プロデューサーのTwitterより)
と言いたかっただけなのだとしたら、あまり褒められた企画ではないなと、僕は思います。
まとめ
最終的な僕の『バビロン』評価はCです。(評価基準)
なので「駄作」だったとは思っていませんが、同時に良いとも思っていないし、感心しない点が沢山あるのはここまで書いてきた通りです。
褒められた企画ではないと言いましたが、それでも挑戦しようという意欲があったのは確かでしょうし、演出・声・音楽などが頑張ってた部分があるのは間違いありません。僕自身に関して言えば「いくらつまらないと言ってもこんな長い文章を書いてしまったのだからお前の負けだ」と言われれば返す言葉がないんですけどね、その通りです。
僕にはまだ教養が足りないのでわからないですが、ひょっとしたら「微分不可能な物語」が高い完成度で実現している作品が既にあるのかもしれません。映画でも小説でも何でも。もしご存知の方がいらっしゃったら是非教えていただきたいです。それがどんなものなのか、僕には想像もつかないですけどね。
ここまで長々と読んで頂いて本当にお疲れ様でした。考えがまとまらないうちに書いた文章なのでわけわからん箇所や考えが甘い箇所などあったかと思います。感想や意見や罵詈雑言など何でも大歓迎なので、どしどし送ってください。