2019年10月からスタートし、変則的なスケジュールで2020年1月に完結した、野﨑まど原作のアニメ『バビロン』についての記事です。今回は作品を見ていない人向けの説明は一切しません。よって作品を最後まで見た人向けの内容になっていますので、ご了承ください。もちろんネタバレまみれです。Amazonで見たい方はこちらからどうぞ。
この記事の主な内容は以下の3点です。
・『バビロン』のテーマは「自殺」でもなく「善と悪」でもない。では本当のテーマは何?
・『バビロン』をアニメ化するという企画判断はそもそも正しかったのか?
まず最初に僕の立場を述べておくと、作家野﨑まどの作品は一つも読んだことがありませんし、おそらく今後も読む可能性は低いです。2017年に制作された『正解するカド』で彼の名前を初めて知り、そして今作を見た、という経緯です。
本来作品分析をするなら原作にも目を通すべきなのは承知しているのですが、今のところは原作をあまり読む気にはなれません。ただ今回はあくまでアニメの『バビロン』についてだけ語るつもりなので、不誠実な態度であると自覚しつつも開き直って書き進めていこうと思います。なので作家野﨑まどの作風や実力の是非については何も言及しませんし、原作者とアニメ制作者を一体のものとしてここでは取り扱っていきます。
参考資料をいくつか挙げておきます。
2. バビロン: 野崎まどの「読む劇薬」アニメ化の裏側 過激な原作も制限無しで(MANTAN WEB)
3. TVアニメ「バビロン」第3章 放送直前特別番組「新域シンポジウム」
(リンク先のYoutube動画は現在非公開。理由は不明)
破綻上等の作劇法
まず『バビロン』に対する批判意見についてですが、「つまらない、クソ、時間を返せ」などの罵詈雑言と並んで最も多く見られるのは「物語が破綻している」というものでしょう。これは僕も完全に同意します。どのように破綻しているのかは後半で詳しく分析していきますが、それを見ていけば破綻しているのは誰の目にも明らかで、客観的な事実と言って差し支えないでしょう。
しかしここで重要なのは、それは作者・制作者に対する批判意見にはなり得ないということです。つまり彼らはそんなことは百も承知で作っているのであって、それを指摘したところで「おっしゃる通りですね」と言われておしまいです。我々が考える・見定めるべきなのは、「物語を破綻させてまで表現したかったことが何なのか、そして結果としてそれが面白いものだったのか」なのです。
さていきなり核心部分に迫った話になりますが、この作品のテーマは「自殺」でもなく「正義と悪」でもないと僕は考えています。
一般的な話ですが、作品のテーマというのはその単語が多く登場したからとか、作中の人物が語っているからとか、そういったもので形作られるものではありません。テーマというのは物語の構造から浮かび上がってくるものなのです。『バビロン』の表面は確かに「自殺」「正義」「悪」といったキーワードで埋め尽くされていますが、それらは全てフレーバー、つまり香りづけのようなものにすぎません。肉の上に香草が大量に降りかかっているので、肉料理じゃなくて香草料理なんじゃないかと勘違いしそうになるわけです。
では肉は何か? 難しく考える必要はありません。やろうとしていることは『正解するカド』と同じなのです。つまり、微分不可能な物語を実現させることです。
微分不可能というのは「その瞬間で予測される物語の全体構造、あるいは進行方向を常に裏切り続けること」という意味です。なので正確には「微分が意味を為さない物語」と言うべきなのですが、言葉の収まりが良いので微分不可能と表現しました。
これは支離滅裂な物語、あるいは脈絡のない場面の連続による物語、というのとは違います。「混沌の状態が続く」ということは「混沌という方向へ(マクロ的に)微分できる」ということなので、これではうまくいきません。ランダムなノイズが続くと、一つ一つの音に集中することなく「全体として一つのノイズ」という風に処理されてしまうのと同じことです。あくまで後で裏切ることが確定している、つまり物語全体としては破綻しているとしても、その瞬間瞬間ではある種の期待(混沌ではなく秩序だった方向性をもつ作品なのだという期待)を持たせ続けなければいけないわけです。なので実は簡単な話ではなく、かなり手の込んだ創作方法といえるでしょう。
『バビロン』の第1話は「政治劇を背後に持つミステリー」として書かれています。そして第2話で「黒幕と思われる人物との折衝を描いたサスペンス」的要素が加わったと思いきや、第3話でミステリー要素がほとんど片付けられて、新域構想という舞台の中での「自殺というテーマの社会派劇」に転じます。そして第4話から証拠を集めて犯人を追い詰める刑事物になり、ご存知の通り第7話でこれまでの謎が全てファンタジーであったことが明らかになります。
「カドでもそうだったが、この作者は風呂敷を畳む能力がないからすぐファンタジーに逃げる」という意見を、きっと多くの人が持っていると思いますが、僕はそうは思いません。作者・制作者は最初から風呂敷を畳む気などないのです。新しい風呂敷をどんどんと広げていって、最終的にどの風呂敷に最初の荷物が収まるのか、それとも収まらないのか、それを見届けようじゃないかというスタンスなのです。そして最後に収まるにしろ収まらないにしろ、「ほら、この風呂敷が並べられて出来た模様(軌跡)って面白くない?」と全然違う視点のゲームを展開して驚かせよう、というのが『バビロン』の本質でありテーマである、と僕は考えます。
そう、まさにゲームなので、見ている側はそれに乗っからないと面白くないわけです。具体例を一つ挙げましょう。
第4話。陽麻が初登場し、後半の事務所での二人きりの会話。
陽麻「何か?」
正崎「あ、いや、事務次官と同じ名前だと、呼ぶときに妙な感じだと思ってな」
陽麻「慣れてください」
正崎「……」
ツンツンした陽麻の態度に取り付く島もないという感じですが、この瞬間に予測を働かせるわけです。
「あーなるほど、このあとで正崎の有能さや正義感に触れて陽麻の心が解きほぐれ、そのうち「下の名前で呼んでください」なんて言って二人の距離が縮むんだろうな。そして野﨑まどなら恐らく陽麻を自殺させるんじゃないかな。いやしかしそれだと文緒と同じだからあるいは……」
こんな風に、見ている側が積極的に先の展開を予測していくゲームなのです。そして予想通り二人は信頼関係を築いていき、良い感じになったところで曲世がエスパーだったことが発覚し、拉致された陽麻は映像中継ごしに見ている正崎の目の前で斧で斬殺されます。ここに至って「はーん、殺されるのは当たっていたがそうきたか」と言って膝をペシッと叩く。こういう見方をして楽しんでくれということです。
こういうメタ的な視座はエンタメではなくむしろ現代芸術の領分でよく見られるものです。なのでそういうものに触れる機会が多い人なら割とピンときやすいのではないかと思います。
本当か?
さてここまで読んでくださった皆さんは「それ本当か? お前あまりに適当なことを言いすぎじゃないのか」と、このように思っているかもしれません。ええ、ぶっちゃけ作者・制作者の意図なんて知ったこっちゃありません。ただ、この『バビロン』という作品を僕なりに一番面白く解釈したらこうなる、という話をしたまでです。
もし本当に作者の言葉を真に受けて、「正義、善、そして悪という、とても大きな主題が掲げられ」(資料3)ていると素直に解釈するなら、『バビロン』はそれこそ「どうしようもない駄作」だと言わざるを得ません。先述した通り、作品のテーマというのは物語の構造から浮かび上がってくるものなのですが、『バビロン』の構造はそれらを語るようには出来ていません。そういったものをテーマにするには穴が多すぎるのです。しかし作者・制作者がそこまで稚拙なものを作るとは思えなかったので、あれこれ考えて「微分不可能な物語の実現」という考えに至った次第です。
「それじゃあそのゲージュツ的な観点とやらでは面白いからお前は高く評価しているのか」
それも違います。僕の意見としては「微分不可能な物語という発想は面白いにしても、その手際が良くなかったために結局作品としてはうまくいかなかった」というものです。つまり、「正義と悪」あるいは「自殺」というテーマの作品としての『バビロン』なら0点ですが、微分不可能な物語としての『バビロン』なら40点ぐらいにはなる、という意見です。
どちらに解釈するにせよ、『バビロン』は作品として失敗、とまでは断言しませんが、少なくとも出来の良い作品ではありませんでした。その原因がどこにあるのか、それを詳細に見ていきましょう。以下、「正義と悪がテーマの物語」という素直な解釈として見る場合を「表バビロン」、「微分不可能な物語」としてメタ的に見る場合を「裏バビロン」と呼ぶことにします。これで文字数が減って楽になりますからね。
中身のない自殺法
表バビロンにおける最大の問題点がこの自殺法でしょう。結局最後までこの自殺法の具体的な中身が何なのかについて語られることはありません。なのでこれを見た人に「バビロンでの自殺法とはどんなものですか?」と訊いてみたらおそらく千差万別の答えが返ってくるでしょう。
そんなフワフワした実体のない自殺法について延々討論したり振り回されたりしているので、表バビロンは物語としてとんでもない欠陥があります。一方、裏バビロンではこれで何の問題もないのです。なぜなら微分不可能とはつまりハッタリを効かせることが非常に重要で、むしろ中身を厳密に定めてしまうと未来の可能性が限定されてしまうので、わざとフワっとしたまま進める方が都合が良いのです。ね、解釈一つでこんなにも「善悪」が入れ替わってしまうのですよ。
一応中身を推測するヒントらしきものはあります。第4話前半での正崎と半田の会話。
正崎「だが、新域の自殺法は明らかにこのレベルを超えている」
正崎が何を以ってそう判断したのかもツッコみどころではありますが、それはさておき新域の自殺法は積極的安楽死以上のものであるということですが、それは一体何なのか。例えば積極的安楽死の条件を著しく下げる、つまりどのような年齢であっても、どんなに心身健康であったとしても、本人が自殺の意志を表明しさえすれば医師が安楽死を施すことが出来る、というのは考えられますね。現実の話をするとここまで条件の緩い積極的安楽死を認めている国はさすがにないので、『バビロン』の8話以降で世界中に衝撃を与える、というのも一応辻褄は合います。
しかし一番の問題は、「自殺法」という単語が初登場した第3話のラストです。齋開化が「新域は、死の権利を認めます」と宣言した瞬間に屋上に立っていた人たちが一斉に飛び降り自殺しますが、実はここには何の繋がりもないのです。新域で自殺法が施行されることと、曲世によって操られている人たちが自殺することは、全く別次元にある2つの事象が同じ場所・同じ時間で起きただけです。
そして第4話冒頭で発生する日本各地の連続自殺も全く繋がらない。例えば自殺法の中身が「自殺者の遺族にはお金が入る」とか「自殺によるあらゆる損害賠償は国が補償する」みたいなものでない限り、集団自殺が発生する論理的な繋がりは何もないのです。そして本当に中身がそんなトンデモ法だとすれば、これが後に世界中に影響を与えるなんていうのが茶番では済まされないレベルになってしまいます。
この「繋がってるように見えて実はまったく繋がっていない展開で物語を紡いでいく」という手法。これこそが『バビロン』の鍵なんです。表バビロンでは破綻以外の何物でもありません。すでにこの第4話で表バビロンにおける自殺の論議は破綻して、最後まで茶番化することが決定づけられてしまいました。ところが裏バビロンではどうでしょう。論理的繋がりがないからこそ、そこに別種の論理を自由に差し挟んで、誰も想像のつかなかった着地点へと誘導することが可能になるのです。
その最たる例が第7話の齋開化親子の茶番劇です。ここで初めて齋開化が「生きた人間の臓器を他者に移植するための自殺法」という、これまで隠されていた法律の側面をいきなり明らかにします。これも自殺法の中身をフワフワ状態にさせておいたから為せる荒技なわけです。
当然表バビロンならこんな論理は通りません。安楽死から臓器移植へと話をすり替えてるんじゃねえよの一言で終わりです。その直後に市民が手のひらを返して賛成に回るのも意味がわからない。手のひらを返すということはつまり「誰も中身を知らないまま議論していた」ことを意味するわけですからね、そんなデタラメがあるかという話です。しかし裏バビロンならこれでいい。「齋開化の巧妙な戦略で大逆転を果たした」という結果に導くためならなんでもありです。なんでそうなるのかを考える必要はない。そんなことより更に次、更に次へと飛躍していくことだけが目的なのです。