先日札幌の地下鉄に乗ったらドアにこの広告が貼ってありました。この人物は大泉洋の所属するチームナックスのリーダー、森崎博之です。どうやら自治体の振興課による北海道米PRの一環のようですね。
で、このキャッチコピーである「食べらさる」、これに妙な引っ掛かりを覚えた人は僕だけではないと思います。別に北海道の人間じゃなくてもなんとなくの意味は伝わるんじゃないでしょうか。「ああきっと押ささるの系統だな」と。意図したわけではないが何かのはずみでボタンが押されてしまった、これが「押ささる」ですね。では「食べらさる」の場合はいかに。
僕が気になったのはまず文法です。「押す」はサ行五段活用の動詞、したがって「押ささる」は、動詞の未然形(押さない)である「押さ」に「サル」が接続されていると分析できます。この理屈からすれば、「食べる」はバ行下一段活用の動詞なので、未然形「食べ」にサルが接続するなら「食べさる」になるはずです。ところが実際は「食べらさる」になっている。これはどういうことでしょう。
そこで単純に「食べらさる 文法」で直球検索してみたら、秀舞子さんの論文がトップに出てきました。一応直リンを載せておきます。
北海道方言における自発の助動詞サルの使用実態 (PDF)
これによると、五段活用以外の動詞は未然形に「ラサル」で接続するようです。なので上一段活用の「見る」も「見らさる」になるわけですね。ふむふむ、文法的には理解できました。
しかし問題は「そんな言い方するか?」でして。
この論文にあったいくつかの例文を紹介します。
・見るなと言われるとなおさら見らさる。
・このお菓子はおいしくてたくさん食べらさる。
・悲しい映画を見てついつい泣かさった。
これらの用法を日常で使うかどうかのアンケート結果が論文の中に載っていますが、半数以上が「使う」と回答したのは60代以上の高齢者層だけでした。なので単なる世代間のギャップだろうと片付けるのは簡単なのですが、仮にそうだとしてもなんでこのギャップが生まれたのかは気になるところです。
もう一つ、関根雅晴さんによる別の論文を紹介します。
北海道方言における”V-(r)asar-“構文の意味に関する記述的研究 (PDF)
こちらは認知文法の専門的な分析がメインなので内容が難解なのですが、論文の一番最後に非常に気になる箇所がありました。そのまま引用します。
ラサル構文は、形態素/–(r)asar–/が動詞語幹に後接することにより表されるものであるが、この形態素は、いわゆる脱使役化(影山1996: 184)の接辞である/–ar–/との関連を伺わせる。この接辞は、他動詞を基本として、そこから自動詞を派生させる接辞であり、共通語において多くの自他対応にこれを見出すことができる。
(44)他動詞+–ar–→自動詞
植える/植わる、集める/集まる、詰める/詰まる、まぜる/まざる、いためる/いたまる、掛ける/掛かる、ふさぐ/ふさがる、つなぐ/つながる、儲ける/儲かる、決める/決まる、助ける/助かる、(値段を)まける/まかる、薄める/薄まる
(影山1996: 183)
これこそがまさに僕の中にある「押ささる」の語感、意識そのものなんです。つまり他動詞的な「する」ではなく、自動詞的な「ある」という感覚です。
・かばんの中で紙が折らさっている。
・雪の上を歩く犬の足跡で模様が描かさっている。
・ピアノの鍵盤のレの音が弾かさった。
これらの例文は僕の感覚に非常にしっくりきます。「自分の、もしくは誰かの意図したものではない」というだけでなく、同時に「その結果としての状態が客観的に認知できる」という点がキーポイントじゃないかと思っています。かばんの中の折れた紙も、犬の足跡でできた模様も、はっきりと目に見えるものですしそれは他の人の目にも同様です。なんとなくピアノに手を置いたら鍵盤から音が出てしまった、その音は動作の主体である自分だけでなく、近くにいる他の人にも聞こえています。
一方で、
・このお菓子はおいしくてたくさん食べらさる。
この文章はどうでしょうか。「そんなに多く食べるつもりはないのに、気が付いたらついたくさん食べてしまう」というのは確かに「意図したものではない」に近いものがあります。しかし「結果としての状態が客観的に認知できる」状況と言えるのでしょうか。まず間違いなく言えるのは、この文章もしくはこの発話は、動作の主体以外からは出てこないという点です。
先程の僕がしっくりくる方の例文ではそんなことはありません。例えば、
「おいお前、そんな雑に荷物つっこんだら、中の紙が折らさっちまうぞ」
この場合、発話者が紙を折った動作主でないことは一目瞭然です。しかし、目の前でお菓子を食べてる人を指して、もしくは皿の上から無くなったお菓子を指して、「たくさん食べらさってるなあ」という言い方はありえないわけです。なぜなら客観的に見えてるのは「お菓子を食べている人物」であって、それは意図してお菓子を食べているようにしか見えないからです。
逆に言えば、客観的に明らかに意図していない状況ならばいいのかもしれません。例えばそうですね、髪の長い女性が食事中に髪の毛が口の中に入っちゃうことはままあるでしょう。その際に、
「髪の毛食べらさってるよ」
と指摘するのは、まあ悪くなさそうです。しかしやはり「食べる」という動詞自体が積極性を備えているので、その点が噛み合わない気がしますね。なので、
「髪の毛が口に入らさってるよ」
の方がまだ自然に思えます。まあ方言話者だとしても「口に入ってるよ」と言う人がほとんどでしょうけどね。
さてここまで長々書いてきたわけですが、「お前の言いたいことはわかった。でもそうじゃない用法もあるんだよ」と言われてしまえばハイお終いです。つまり、「つい〜〜しちゃう」とまったく同じ意味を持つ方言としてのサル・ラサル用法もあって、それらは特に高齢者にとっては違和感がない、というのが実際のところなのでしょう。
ただ僕が言いたいのは、サル・ラサル用法の中にある自動詞的な感覚というのは単なる方言にとどまらない、日本語そのものの特質と深く結びついている気がしてならないんですよね。というのは、動作主が積極的に事象に関与している場合でさえ、その結果としての状態に対する、ある種の責任逃れとでも言うような、事象を他人事のように見つめる視点が感じられるからです。
「自分が積極的に食べようとしているわけじゃない。このお菓子の美味しさが、自分に食べるよう働きかけているのだ」→食べらさる
「自分が積極的にパンツを覗こうとしているのではない。風でなびくスカートが俺の目を吸い寄せるのだ」→見らさる
こういう意識ですね。先程僕は「結果状態が客観的に認知できるかが重要」と言いましたが、「めちゃめちゃ主体的にその状態を作り上げているにも関わらず、それを客観的だと言い張りたい気持ち」が、僕のしっくりこない方のサル・ラサル用法の根底にあるのではないか、というのが僕の意見です。
ということは、ですよ。それをわかった上で使う、つまりツッコミ待ちで使う、というのはアリなんじゃないでしょうか。
「これだけ腹筋がついてくるとなんだか服が脱がさるわ」
「贔屓のチームが勝ってる日はビール缶がどんどん空かさっていく」
これは「いやお前が腹筋自慢したくて脱いどるんやろ」「いやお前が気持ちよくて酒進んどるだけやろ」というツッコミが入るのをわかってて言ってるわけですね。あれ、僕はなんか急にしっくりきますねこの用法。さっきまで違和感があったのがむしろ積極的にこのサル・ラサル用法を使いたくなってきました。
まあとにかく、サル・ラサル用法の中にある「(たとえ客観性が失われているとしても)状況を自動詞的に眺める感覚」、これは日本語そのものにそういう性質が既に備わっていると僕は思っています。その根拠をもっと具体的に挙げられればいいんですけどね。いや確か養老孟司みたいな文学者か日本語学者か、同じようなことを言ってた記憶があるんですよね。まあもし今後そういうのを見かけたらまた紹介しようと思います。
さて最後に、競馬ファンの人たちにこの言葉を捧げます。
オッズの旨味がないとわかってても、川田の馬券は買わさるんよな。