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	<title>重い話 | ヒゲメガネボウズ</title>
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	<description>パリでの音楽修行記録</description>
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	<title>重い話 | ヒゲメガネボウズ</title>
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	<item>
		<title>「頭が良い人」を一言で表すなら？【ニーバーの祈りと首領への道】</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Ryozo]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 08 Jun 2024 09:13:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[重い話]]></category>
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					<description><![CDATA[少し前の話になりますが、ニコニコで『世界の奇書をゆっくり解説』という動画シリーズの最新作がアップされていたので、見たんですね。 作者の三崎律日は２０１７年からこのシリーズの制作を始めて、僕の記憶では第１回の全く知られてい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>少し前の話になりますが、ニコニコで<strong>『世界の奇書をゆっくり解説』</strong>という動画シリーズの最新作がアップされていたので、見たんですね。</p>
<p>作者の<strong>三崎律日</strong>は２０１７年からこのシリーズの制作を始めて、僕の記憶では第１回の全く知られていない頃からすでにニコニコでは再生数が多く、それなりに話題になっていました。おしゃれな動画編集とレトリックの巧みさで、ニコニコとはあまり相性の良くない知的教養系の動画であるにも関わらず回を重ねるごとに人気が出て、ついには本の出版にまで至るというのは本当にすごいことだと思います。今回のこの記事の本筋とはズレてしまいますが、一度見てみることをオススメします（ただ動画時間がかなり長いので暇なときにどうぞ）。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><iframe title="世界の奇書をゆっくり解説 第20回 「ベティ・クロッカーのお料理ブック」" width="1256" height="707" src="https://www.youtube.com/embed/UYaiKIpSwLw?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>で、この最新作「ベティ・クロッカーのお料理ブック」の結びの部分で、<strong>「ニーバーの祈り」</strong>が紹介されていたんですね。これは１８９２年生まれのアメリカの神学者<b>ラインホルド・ニーバー</b>が教会での説教で唱えていた詩のようなもので、その原型となるものは遥か昔から存在していたようですが、今広く知られている原文はニーバーの作によるもの、だそうです。結構有名みたいなのですが、恥ずかしながら僕は全く知りませんでした。</p>
<p>動画の中で紹介されている日本語訳は<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A">Wikipedia</a>のものと全く同じで、それの冒頭部分をここに載せます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<div class="info-box"><em>神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。</em><br />
<em>変えるべきものを変える勇気を、</em><br />
<em>そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。</em></div>
<p>&nbsp;</p>
<p>動画の中でこれが出てきたとき、僕はまったくの初見でしたから、「うわー」と口に出しながら動画を一時停止し、しばらく感動に浸っていました。こんな短い言葉の中に、なんという人生の真理が含まれているのだろうかと、嘆息せずにはいられません。</p>
<p>特に最後の<strong>「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」</strong>という表現。<strong>これこそが「頭が良い人」の定義にふさわしいのではないか</strong>、というのが今回の本筋です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="text-align: center;">======</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>みなさんにとって、頭が良い人ってどういうものですか？</p>
<p>という本来記事の冒頭に置かれるべき文句を今更ながら載せてみたわけですが、僕にとってこの問いというのはもう<strong>お友達みたいなもの</strong>で、高校生のときからずーっと考え続けてることなんですね。<strong>暇な人やねえ。</strong>でもまあそれだけ長いこと考えていればそれなりにまとまってくるもんで、大学生の頃には友達や先生によくこの話をしていました。</p>
<p>僕が定義する「頭の良さ」は<strong>「未来を読む力」と「誠実さ」の二軸</strong>です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>未来を読む力については大方異論はないかなと思われます。過去を分析し、現状を分析し、およそどんな分野においても通じるような「物事や人間社会の進んでいく方向性」に対する感性が身についてくると、それを自分の専門分野の知見や能力と融合させて「未来を読み」、他者より先駆けて行動を起こすことで実際に成功を収めている人たちは確かにいます。それは「頭が良い」と形容するにふさわしいでしょう。</p>
<p>誤解のないように言っておきますが、いわゆる世の「成功者」がみんな未来を読む力がある人という意味ではありません。むしろそんな能力とは無縁の人の方が圧倒的に多いでしょう。社会的成功・学問的成功・芸術的成功と「未来を読む力」は、まったくとは言いませんがほとんど関係ありません。<strong>それでもその能力は重要である</strong>と僕は考えていますが。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>問題は二つ目の「誠実さ」でしょう。<strong>「頭が良いとは誠実さのことである」</strong>という主張を、少なくとも僕は聞いたことがありません。でもそうなんじゃないかなあと、日々生きてて思うんですよね。</p>
<p><strong>人</strong>（関係を持ち認知している人や、その集合であるコミュニティ）や<strong>モノ</strong>（作品、製品、サービス、生き物など幅広く含む）に対して、「誠実であろう」と心に決めていざ実践しようとする人は、<strong>例外なくその困難さにぶつかる</strong>はずです。単純に障害が多い<span class="fz-14px">（なんてくだらないんだと思いつつも<strong>厄介な</strong>障害で我々の社会は出来ている）</span>場合もありますし、仮に障害が少なかったとしても実践するのは肉体的・精神的に大変ですし疲れますし、なにより「そもそも今の自分の立場における誠実さってなんなんだ」と<strong>考え続けなければいけない</strong>からです。</p>
<p>誰かが答えを教えてくれることもなく、自分の実践を自分で検証し、「一旦たどり着いた正解」を日々修正し改良し、時には一から再構築しなければいけません。これが出来る人は頭が良いというより<strong>「偉大な人」</strong>と形容すべきかもしれませんが、そのために必要な能力は、やはり「頭が良い」と形容すべきなんじゃないかなと僕は思うわけです。（ここらへんの考え方は陽明学における<strong>「知行合一」</strong>に影響を受けています。）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>どうでしょうか。</p>
<p>「うーん、なんだかよくわかんないな」<br />
「へえ〜なるほどねえ〜」</p>
<p>まあいろんなリアクションがあると思いますが、「うわーすげえなー！」と膝を打つリアクションってほとんどないと思うんですよね。</p>
<p>というのは、<strong>「頭が良いとは未来を読む力と誠実さの二軸である」</strong>という考え自体はオリジナリティがあって悪くないなと我ながら思うんですが、同時に<strong>パンチに欠ける</strong>と言いますか、スッと伝わらないんですよね。飲み会とかで長々説明させてもらえるならいいんですが、やっぱり一言でズバっと表現できた方がクールだよなあとはずっと思っていたんです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>で、数ヶ月前に家の<strong>雪かき</strong>をしながらそんなことを考えていたんです。高校生の頃も登下校の自転車を漕ぎながら考えていましたし、やはり思索は身体を動かすのが大事なんでしょうね。雪かきの最中にふっと閃いたんですよ。「ああこれなら一言で頭の良さを表現できるかもしれない」って。それが、</p>
<p><strong>頭が良い人とは、原則と例外を正しく区別できる人間である。</strong></p>
<p>という定義です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今世界中に溢れている問題の数々は、結局のところここに行き着くのでは？　と思うんです。男女差別や性的マイノリティ差別、それにまつわるポリコレの数々、環境保護とエネルギー、移民、防衛、少子化対策、などなどなど。少なくとも今挙げたものは僕からすれば<strong>原則と例外を履き違えているが故にこじれている問題</strong>です。</p>
<p>「原則がこうなのだから例外が存在するのはおかしい」<br />
「例外があるんだったら原則自体に意味がない」</p>
<p>断言できますがこれは<strong>頭の悪い結論</strong>です。しかし世の議論がアホな結論に至ることのなんと多いことか。ラテン語に「<strong>例外の存在が規則の妥当性を証明する &#8220;exceptio probat regulam&#8221;</strong> 」という諺がある通り、原則と例外は互いが互いを補強し合う関係にあるのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「多くの場合に通用する原則があって、そこから漏れ出る例外がある」</p>
<p><strong>これが真理であり、また同時に原則でもあります。</strong>つまり、これが入れ子になってるわけです。そしてもう一つ大事なのが、<strong>「原則が通用する割合の方が多くなければならない」</strong>ことです。原則が通用しない状況が半分を超えるなら、それは原則を見直すべきなのです。</p>
<p>我々は人間原則から逃れられないにも関わらず、<strong>どうにも自分は例外側だと認知したくなる</strong>傾向があります。これは良くない結果を招くことが多いので、慎重に判断をしなくてはいけません。多くの場合に当てはまる原則の有用性を活かしながら、例外の存在を見極め、その対処法の実践と検証ができる人を、「頭が良い」と形容してもいいのではないでしょうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>……みたいなことを日々考えていたところへ、「ニーバーの祈り」が僕の前にやってきたので、「こーれはかなり近いことを言ってるのでは！？」となって今回の記事を書くに至ったわけです。ようやく全てが繋がりましたね、長い旅でした。もちろんニーバー本人にとってのあの文句が意味するところは違うものでしょう。ただ、それほど遠くもないのではないかな、と僕は思っている次第です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>先述したように「頭が良いってなんだろう問題」は僕の<strong>幼馴染みたいなもの</strong>なので、今後もこれについて考え続けるでしょうから、また新たな知見が生まれたら発表できたらなと思っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="text-align: center;">======</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここから先は余談のコーナーです。冒頭の動画内では、ニーバーの祈りと共に、同じくニーバーの<strong>「神によって植えられた場所で咲きなさい」</strong>という言葉も紹介しています。これもまた<strong>僕の胸を打つ</strong>んですよねえ。この言葉を聞いて真っ先に思い出すのは『<b>首領への道</b>』です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-4298" src="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don.jpg" alt="" width="367" height="500" srcset="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don.jpg 367w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don-220x300.jpg 220w" sizes="(max-width: 367px) 100vw, 367px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>『首領への道』は１９９８年から始まった<b>清水健太郎</b>と<b>白竜</b>主演のVシネ任侠作品で、当時から人気があり劇場版まで制作されていましたが、それとは関係なく<strong>様々な要因が重なってかつてのニコニコ動画で非常に人気が高かった</strong>作品です。（詳細はめんどくさいので省略）</p>
<p>冒頭の概略だけ簡単に説明しますと、しみけん演じる<strong>桜井</strong>の所属する<strong>島田組</strong>と白竜演じる<strong>越智</strong>の所属する<strong>白虎会</strong>は対立関係にあり、それが激化していよいよ全面戦争になるかというところで、桜井が奇策として白虎会の本部に単身乗り込み、白虎会組長に引退を迫り、代わりに自分の首を差し出すことで手打ちにすることを提案。組長はその覚悟を認め引退と手打ちを受け入れたが、その条件として白虎会若頭である越智を桜井の弟分にしろという。困惑しつつもその条件を飲んだ桜井は正式に越智を弟分として迎えるわけですが、その初日に桜井は越智を行きつけのバーへ連れて行きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-4299" src="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don01-1024x594.jpg" alt="" width="1024" height="594" srcset="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don01-1024x594.jpg 1024w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don01-300x174.jpg 300w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don01-768x445.jpg 768w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don01-1536x891.jpg 1536w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don01-2048x1187.jpg 2048w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<div class="blank-box bb-blue">桜井「越智。お前ワシの舎弟になって、迷惑しとるんちゃうか」<br />
越智「そんなことありまへんがな」<br />
桜井「ここは無礼講や。本音聞かせ」</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-4300" src="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don02-1024x594.jpg" alt="" width="1024" height="594" srcset="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don02-1024x594.jpg 1024w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don02-300x174.jpg 300w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don02-768x445.jpg 768w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don02-1536x891.jpg 1536w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2024/06/don02-2048x1187.jpg 2048w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<div class="blank-box bb-blue">越智「持った縁に従い、自分の分を全うするのが、わしの道だす」</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>初見でこのシーンを見たとき、白竜の演技も相まって、めちゃくちゃ痺れたんですよね。「持った縁に従い、自分の分を全うする」結局生きるってこういうことよな、と今でも思います。なのでこれは僕の<strong>座右の銘</strong>です。大企業の就職面接で「座右の銘はなんですか？」と訊かれたとしても、<strong>嘘はつけません</strong>ので、「首領への道の白竜のこのセリフです」と答えるでしょう。<strong>まあ就活なんてしたことないんですけど。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>話がまた遠回りしましたが、これこそニーバーの「置かれた場所で咲け」のバリエーションと言えるでしょう。首領への道には人生の真理が詰まっています。いや今自分で調べててびっくりしたんですが、なんと<strong><a href="https://amzn.to/3RihqIM">PrimeVideo</a>で首領への道が見れる</strong>んですよ。これは面白いので、ヤクザモノに抵抗がなければ是非見てほしいですね。ケレン味たっぷりのレイアウトとカメラワーク、非常に演技力のある役者と大根役者の<strong>落差</strong>、Vシネ特有の<strong>満載のツッコミどころ</strong>など、魅力がたっぷり詰まった作品です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最後に軽く自分語りをして締めますが、実は少し前から僕の生活状況が<strong>激変</strong>しまして、本当に人生とは何が起こるかわからんもんやなとつくづく思います。しかし結局この状況も、「持った縁に従い、自分の分を全う」しようとした結果なんですよね。いつかこれを笑って話せるように、これからも誠実に生きていこうと思います。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「評価すること」の難しさ・その１　コインの裏表理論</title>
		<link>https://algomuze.com/heavy/3016/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[Ryozo]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 14 May 2020 14:49:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[重い話]]></category>
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					<description><![CDATA[日本時間の２０２０年５月９日から１０日にかけてTwitter上で突如として「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りし、各界の著名人の結構な人数がこのハッシュタグのみをツイートするという珍騒動が起き [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本時間の２０２０年５月９日から１０日にかけてTwitter上で<strong>突如として</strong>「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグがトレンド入りし、各界の著名人の結構な人数がこの<strong>ハッシュタグのみ</strong>をツイートするという珍騒動が起きました。この記事ではその内容にはほとんど触れませんが、こういった騒動はこれからも絶えず起き続けるでしょう。そういったものに対する心構えについてと、そこから話を広げて「物事を評価すること一般について」を語ろうと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは話の端緒でありいきなり結論でもあるのですが、「<strong>ある議論に対して本気で取り組もうとするなら賛成・反対だけで語ることに何の意味もない</strong>」という理解がとても重要です。別にこんな当たり前のことは僕なんかが改めて言うまでもないことなのですが、ともすればつい忘れがちになってしまうのも事実です。言い換えると、賛成・反対だけで噴き上がってる連中は<strong>本気で取り組む意思・能力がないことの表れ</strong>であるということです。</p>
<p>なぜ意味がないのか？　それは<strong>個々人の持つ情報量と情報を扱う能力には差があるから</strong>です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1135.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3018" src="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1135-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" srcset="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1135-300x225.jpg 300w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1135-768x576.jpg 768w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1135.jpg 960w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>情報量が定量的に扱えるものだとして、それが積み上がっていくときの人間の認識は、単純な極点から極点へのグラデーションではなく、このように<strong>両極を行ったり来たりするような形になっている</strong>ものです。</p>
<p>英語では <em><strong>«Extremes meet.»</strong></em> 、フランス語では <em><strong>«Les extrêmes se touchent.»</strong></em> 、日本語にすると「<strong>両極は相通ず</strong>」ということわざですが、これは単純に「政治的な最右翼と最左翼は結局共に暴力手段に訴える」という意味だけでなく、人間の認識の発展過程をうまく捉えた表現であると僕は思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この図で重要なのは、「情報量１の賛成と、情報量３の賛成は<strong>見た目は同じく見えるがその地位や扱いを同等にすべきではない</strong>」ということ、そして「情報量が一定数を超えると<strong>賛成・反対どちらとも言えなくなる傾向が強い</strong>」ということです。</p>
<p>僕はこれを「<strong>コインの裏表理論</strong>」と呼んでいます。我々が買い物をするときに、レジに出す硬貨の裏表を店員が気にしたりすることがあるでしょうか。店員が常に注意しているのは<strong>硬貨そのものの種別・価値</strong>であり、裏表がどちらかではありません。<strong>賛成・反対は所詮硬貨のウラオモテでしかない</strong>ということです。その意見が１円の価値なのか１００円の価値なのか、そこに目を向けなくてはいけません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一つ例を挙げましょう。</p>
<div class="blank-box">①太郎が花子の父を殺した。</div>
<div class="blank-box bb-blue">②太郎が自分の父の仇を取るために、花子の父を殺した。</div>
<div class="blank-box bb-green">③太郎は自分の父を殺した犯人が花子の兄の健太であることを知らず、思い違いで花子の父を殺した。</div>
<div class="blank-box bb-yellow">④花子は兄の健太が犯人だと知っていたが、愛する兄との関係を快く思っていなかった父のことが憎かったので「あなたのお父さんを殺したのは私の父だ」と太郎に言い、太郎はそれを信じて花子の父を殺した。</div>
<div class="blank-box bb-red">⑤花子が太郎の父から長年にわたって酷い嫌がらせを受けていたことを兄の健太は知っていて、ついに我慢の限界で殺すに至ってしまった。花子は兄を庇うために太郎に嘘を教え、太郎はその嘘を信じて花子の父を殺した。</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>どうでしょうか。これが情報量が積み重なっていく感覚です。各段階で「悪いのは誰か？」の答えが変わっていますよね。（①太郎　②花子の父　③健太　④花子　⑤太郎の父）</p>
<p>これは僕が塾講師をやっていたときに中学生相手にしていた例え話で、まあ中学生はこれくらいのスパイスのある例の方が食いつきやすいのでこれを採用していたのですが、何のために話していたのかといえば「<strong>歴史を学ぶ上で必要なセンスとは何か</strong>」を伝えたかったからです。①だけ見て「太郎が悪い！」と断言するのは小学生でもできることですが、その背景にある②、③、④とどんどん深く事実を探り考察をし、①の結論が本当に正しかったのかどうかを改めて考える、これが歴史を学ぶ意義なのだということです。だから「書かれていることを覚えるだけじゃなく、書かれていることから常に疑問を引き出すようにしなさい、その疑問点を探る力はテストで点数を取るより遥かに将来に役立つよ」と指導していました。</p>
<div class="info-box">余談ですがこれは創作のストーリーを組み立てる上での常套手段でもあります。隠された事実を少しずつ明らかにしていきながら、登場人物の認識が変化していく・深まっていく過程をどう描くかがドラマの質を決める大きな要因の一つと言えるでしょう。また、マスコミによる偏った報道についての例であるとも言えます。⑤という事件を④のように報道しようが③のように報道しようが、嘘は言ってないのは確かです。<strong>紙面が限られてるという建前</strong>の裏で扱う情報量を操作すれば、認識を特定の方向へ導くことは簡単です。</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>話を戻します。とにかく議論においては各人が前提としている情報量にバラつきがあるということ、そして更に厄介なのは、同じ情報を前提としていても<strong>それを扱う能力の差によって結論は容易く反転する</strong>ということです。それがまさしく先ほどの例で、①という情報しか与えられてなくてもそこから②、③、④のような可能性に対する考察を深めていく能力がある人もいれば、①のまま立ち止まっている人もいるということです。</p>
<p>この情報を<strong>インフォメーション</strong>と呼び、情報を扱う能力を<strong>インテリジェンス</strong>と呼びます。<strong>共に「賢いこと」の象徴とされているこの二つ</strong>を混同してはいけないというのはもちろん、どうすればインテリジェンスを磨いていくことができるのか、それを考え実践していくことが本当に重要なことだと日々実感するばかりです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみになぜ「情報量が一定数を超えると賛成・反対どちらとも言えなくなる傾向が強い」のかと言えば、あらゆる物事において<strong>０点や１００点のような極端な評価がつけられることは滅多にない</strong>からです。良い面・悪い面があり、評価すべき点とそうでない点がある。「<strong>中庸</strong>」の概念が身体に染み付いている人間は、極端な評価が下されそうな瞬間にその妥当性を疑う癖がついているものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>とりあえず今回の珍騒動の個人的な見解を述べると、<strong>著名人がハッシュタグだけでツイートするという行為は気に入らないです</strong>。ここまでの流れを読んでもらえばわかるとおり、それを言ったところでその人間の認識がどの段階にあるのかがまったくわからず、ただ影響力だけを徒に振りまく結果にしかないからです。つまり<strong>本気でこの問題に取り組む意思がない。そのことを表明して何の得があるんですか？</strong></p>
<p>本気で取り組む意思があるなら、<br />
①この問題に関する自分のインフォメーションとインテリジェンスに自信がある場合、その認識に至る道筋を他の人がわかりやすく辿れるように導いていく<br />
②自信がない場合、現段階での自分の認識を開陳し、それが誤っているのかどうか、足りないものはなにか意見を募る<br />
このどちらかになるはずです。</p>
<p>「普段政治的なツイートを一切していないけど、今回ばかりは重大問題だからツイートした」みたいなのもちらほら見かけますが、右に倣えで今回の件に乗っかるよりも<strong>８％になる前から増税反対</strong>をつぶやいた方が遥かに多方面に良い影響を与えただろうにと個人的には思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>教訓として肝に銘じておきたいのは、「<strong>議論をするときには賛成・反対の立場だけで相手を推し量るのではなく、どのインフォメーションを基にしてどういうインテリジェンスを駆使してその結論に至ったのかで推し量る</strong>」ことが何より重要だということです。残念ながらネット上のほとんどの空間ではこういう健全な議論を進めることが難しいでしょう。けれど実際に人と対面して話したりする機会がある人は、この心構えを忘れないでもらいたいですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="text-align: center;">◆ ◆ ◆</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さてこの話題をここで終わらせてもいいんですが、もう少し話を大きくしてみましょうか。これは一つの問題を考えるときだけでなく、<strong>「作品や人物を評価するとき」でも同じ</strong>だということです。つまり「好き・嫌い」「良い・悪い」の単純な二分法で考えてる限り、そこから先へは進めません。好き嫌いを何往復もし、良し悪しの判断がつかなくなって迷宮入りをしていく過程を経て、ようやくその対象の深奥に一歩近づける、そういうもんだと僕は思っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>例えば劇場で一つの映像作品を見るとしましょう。先ほどの議論の例とは違い、同席している人たちが享受する<strong>表面的なインフォメーション</strong>は基本的には同じはずです。しかしそのインフォメーションを自分の中で整理し統合するのは難しいことです。映像のどこに注目すべきなのか、どこに耳をすませるべきなのか、瞬間的な判断のためには経験と訓練が必要です。これだけでも大変なことなのに、まだここから先に<strong>二つの大きな壁</strong>があるんです。</p>
<p>一つは<strong>潜在的なインフォメーション</strong>の存在です。どういうスタッフが作っているのか、この監督の過去作とどういう共通点・相違点があるのか、あるシーンやカットにおけるパロディ・オマージュの元は何か、などです。あるいは更に潜在的なインフォメーションとして<strong>制作事情</strong>が挙げられます。制作陣の人間関係、予算やスケジュールの都合、企画における条件や制限、などです。この「制作事情と評価の関連」はこれまた非常に複雑な話になるので今回は深掘りしませんが、とにかくこういう潜在的なインフォメーションは映画やアニメに限らずあらゆる創作に確実に存在します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もう一つは<strong>インテリジェンス</strong>。「潜在的なインフォメーションを探っていく能力」のことをインテリジェンスと捉えてる人も多いかと思いますが、僕はそれは別物と考えています。「表現の受容におけるインテリジェンス」とは何か。これは高度な芸術上の問題であまりに難しい話ですが、できるだけ短く言語化するために、現在の僕の考えを形成するに至った一つの文献を引用しましょう。……は僕自身による省略、太字は本文では傍点になっている箇所です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<div class="blank-box sticky"><em>アカデミックなアプローチにおいて……作品についての正確で綿密な記述が獲得されても、その記述は自己自身に対しても他者に対しても影響力を持たないということがある。……創造に何ら役立ち得ない、自己の殻に閉じこもった知識、合理的で詳細で、その外観上の論理によって魅惑的ではあるが、直観的可能性という点ではまったく空虚な知識というものが存在する。……</em><br />
<em>生産的な分析とは、最も鷹揚な場合、<strong>誤った</strong>分析であり、それは、作品の中に一般的な真実ではなく、特殊で一時的な真実を見出し、自分自身の想像力を、分析された作曲家の想像力に接ぎ木させるのである。そうした分析的な出会い、そうした突然の爆発だけが、いかに主観的であろうとも、創造的なのだ。</em><span class="fz-14px">（ブーレーズ著・笠羽映子訳『標柱』p.34）</span></div>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは作曲家が作曲という行為について語ったものであり、ここでいう「分析」も一般芸術で言うところの「分析」とは意味が多少異なりますが、ここに書かれていることは一般化できるものと僕は思っています。この前半部分（アカデミックなアプローチ）が表面的・潜在的インフォメーションによる分析であり、後半部分（生産的な分析）がインテリジェンスを語ったものだと解釈しています。</p>
<p>つまり、<strong>作品受容におけるインテリジェンスとはバイアスのかかった感受である</strong>、ということです。ある一つの作品、または作品の中の一部によってもたらされた<strong>電撃的な感銘や感動の尻尾を掴んで、その正体を引っ張り出す能力</strong>のことをインテリジェンスだと僕は考えています。そしてその能力を本気で高めようと思ったら「アカデミックなアプローチ」から逃れることはできないのだと悟る瞬間が必ずやってきます。その二極間をどうやって渡り歩いて行ったらいいのか、その答えをその人なりに導き出せたとき、やっと<strong>真に自立した価値基準</strong>を手にすることができるわけです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>バイアスなんていうのはインテリジェンスから最も遠いものだと普通は思うでしょう。「偏りのなさ」こそが知性の証明であると一般的には考えられていますし、他ならぬ僕自身が先ほど<strong>中庸</strong>という単語を持ち出したわけですからね。しかし表現分野において、のみならずおそらく万事において、それだけでは踏み込めない領域が確実に存在すると僕は考えています。「<strong>変態を理解できるのは変態だけ</strong>」と言えば少し伝わるでしょうか。まあでも「天才」に置き換えれば普通の文章ですよ。<strong>だから難しいんですこの話題は</strong>。そりゃあ世の真理なんてそう簡単に掴めるものではないですから当然なんですけども。とりあえずこの考え方を言語化するならば、「<strong>真の中庸とは中庸と反中庸の狭間に存在する</strong>」という表現になるでしょうかね。ちょっとトートロジーっぽいですけど、そんなに悪い表現ではない気がします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それはともかく、僕が太字で強調したところでそんな「自立した価値基準」とやらに興味を持ったり憧れたりする人はそう多くはないでしょう。なぜなら表現分野に携わる人間でない限り、<strong>日常ではまったく役には立たない</strong>からです。しかしその価値基準を追求する人とそうでない人の間には、「創造行為」に対する視点の深さにおいてとてつもない断絶が生まれます。なのでその点に関して両者は永久に相互理解は不可能でしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まとめますと、表現受容には</p>
<p>①表面的インフォメーションの整理・統合<br />
②潜在的インフォメーションの調査・解読<br />
③インテリジェンス、電撃的な分析</p>
<p>の３つの困難があり、これが自分自身による作品評価を難しくしている要因でもあり、他人による作品評価を理解することが難しい要因でもあるということです。ただ、他人が作品を語っているときには、今この３つのうちどれについて語っているのかなという視点を持つと、どんな分野の作品評価でも整理されてわかりやすくなるとは思います。<strong>作品評価である限りこの３つから外れることは絶対にありません</strong>。もし外れてるものがあるとすれば、それは作品評価に<strong>直接関係のないポエム</strong>ということです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<div class="info-box">せっかくなので僕のアニメ語りの態度についても書いておきましょう。僕がこのブログでアニメ論評を行う上での優先順位は③＞①＞＞＞②で、その理由は「<strong>③の能力を鍛えるために書いてるから</strong>」なのです。専門的な評論家が②を優先するのは当然のことですし、その分析が評論家に課せられた使命の一つであることは間違いありません。ですが、それにとらわれるあまり③を蔑ろにするどころかほとんど無視する評論が溢れていることもまた事実です。<strong>その態度は結果として作品の本質から遠ざかってしまう</strong>という真理についても先ほど引用した本の中に書かれているので、それもいずれ紹介します。</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>今回は記事タイトルに「その１」と既につけています。今回の話題だけでも相当ややこしいんですが、これよりも更に発展させた話題があることもまた事実です。「評価すること」は僕の研究テーマにも深く関わっているので、また別の機会に続編を執筆できればと思っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1134.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3017" src="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1134-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" srcset="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1134-300x225.jpg 300w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1134-768x576.jpg 768w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2020/05/IMG_1134.jpg 960w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>今回のサムネイル。日本の硬貨は額面が書かれている方が裏面ですよという<strong>おばあちゃんのインフォメーション袋</strong>でした。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>イチロー、ウメハラ、ハブヨシハル</title>
		<link>https://algomuze.com/heavy/466/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[Ryozo]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 22 Mar 2019 18:15:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[重い話]]></category>
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					<description><![CDATA[３月２１日、イチロー選手の引退が発表されました。試合後の引退会見は１時間以上行われ、さすが興味深い内容が多くて面白かったのですが、その中で印象に残ったものを紹介します。 &#160; 記者の質問。 「子供の頃からの夢であ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>３月２１日、イチロー選手の引退が発表されました。試合後の引退会見は１時間以上行われ、さすが興味深い内容が多くて面白かったのですが、その中で印象に残ったものを紹介します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>記者の質問。</p>
<p>「子供の頃からの夢であるプロ野球選手になるというのを叶えて、これだけ成功なさって、イチローさんは今、何を得たと思っていらっしゃいますか？」</p>
<p>イチローの答え。</p>
<div class="blank-box">
<p>「まあ成功かどうかってよくわからないですよね。じゃあどっからが成功でそうじゃないのかっていうのは、まったく僕には判断できない… だからまあ成功って言葉は僕は嫌いなんですけど。</p>
<p>メジャーリーグに挑戦する——まあどの世界でも新しいことに挑戦するっていうのは大変な勇気だと思うんですけれど、まあ成功——ここは敢えて成功という表現をしますけれど——成功すると思うからやってみたい、それが出来ないと思うから行かない、という判断基準では、後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。出来ると思うからやるのではなく、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときに、まあどんな結果が出ようとも、後悔はないと思うんですよね。</p>
<p>じゃあ自分なりの成功を得たところで、達成感があるのかと言えば、それも僕には疑問なので、基本的にはやりたいと思ったものに向かって、生きたいですよね」</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これを聞いた瞬間に思い出したのは、プロゲーマーの<strong>梅原大吾</strong>です。知らない方は<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E5%A4%A7%E5%90%BE">Wikipedia</a>をご覧ください。一言で言えば、日本人初の、そして最も有名なプロゲーマーです。プロゲーマーの第一人者が彼であったことは、この業界にとって最大の幸運だったと僕は思います。</p>
<p>彼は２０１７年に慶應大学で講演を行なったのですが、その内容が忘れられないほど面白いのです。動画があるので時間がある方は、いや<strong>時間のない方でも</strong>一度見てみるのを勧めます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><iframe loading="lazy" title="ウメハラ「BeasTV」17/1/19 - 一日ひとつだけ強くなる 慶應丸の内シティキャンパス講演" width="1256" height="707"  data-youtube="eyJ0aXRsZSI6Ilx1MzBhNlx1MzBlMVx1MzBjZlx1MzBlOVx1MzAwY0JlYXNUVlx1MzAwZDE3XC8xXC8xOSAtIFx1NGUwMFx1NjVlNVx1MzA3Mlx1MzA2OFx1MzA2NFx1MzA2MFx1MzA1MVx1NWYzN1x1MzA0Zlx1MzA2YVx1MzA4YiBcdTYxNzZcdTYxYzlcdTRlMzhcdTMwNmVcdTUxODVcdTMwYjdcdTMwYzZcdTMwYTNcdTMwYWRcdTMwZTNcdTMwZjNcdTMwZDFcdTMwYjlcdThiMWJcdTZmMTQiLCJ2aWRlb19pZCI6ImZTNFNLZ3pLYXdJIn0=" src="https://www.youtube.com/embed/fS4SKgzKawI?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後半で質疑応答があるのですが、その内容を抜粋します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>質問「僕が今やりたいことと言うのは、梅原さんのゲームと同様、周囲から認められるようなものではないんです。出来ることなら、厳しいんですけどその道に進みたいと考えていて、ですがそれは大学の勉強とは一切関係のないことなんです。それで、やりたいこととやらなければいけないこととの折り合いというのを、梅原さんはどうやってつけていましたか？」</p>
<p>梅原の答え。</p>
<div class="blank-box">
<p>「そのバランスがすごい悪いから怒られてたんですよ。（会場笑）もちろんきちんと両立している人もいるけれど、僕みたいに突っ走ってしまう人もいる。もし本気でやりたいことがあるのなら、まあこういうこと言っちゃあ悪影響かもしれないんですけど、折り合いなんてつけてる場合じゃないんですよ。本当にやりたければ。</p>
<p>でも普通はそうじゃないですよね。サラリーマンになって、子供ができて、平和な家庭を作ってって、そういう人生もいいなあとも思うし、何か一つのことに打ち込むのもいいなあと、思うわけですよね。そう思うんだったら、両方並行して進めていったらいいんじゃないかなと思いますね。</p>
<p>で、何より重要なことっていうのは、今日のテーマでもありますけど、<strong>自分で決める</strong>っていうことだと思いますね。折り合いをつけなければいけないというのが、自分が人生の中から自然と学んだことなのか、周囲に言われたことなのか、そういうことによって、後悔するかしないかって決まってくると思います。</p>
<p>自分が人生の中で、「そうか、やりたいことと、やるべきことは、分けなきゃいけないんだ」ということを実感して、その人生哲学に基づいて行動するんだったら、後悔しないはずなんですよ。「あのとき俺は、一つのことに打ち込んでいたらどうなっていただろう」って後悔はしない。だけど、「折り合いをつけるべきでしょ」って、なぜなのかという説明も何もされずに大多数の意見に耳をかして、自分のやりたいことを諦めたとすれば、もしかしたらいつか、「あのときああしてたらな」と思う可能性はあります。</p>
<p>これは難しいんですけどね。だけど本当は自分はどう思っているんだろうというのを深く掘り下げて、その上で答えを出すのならば、何を選んでも悪いことにはならないんじゃないかと思います」</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<div class="blank-box">
<p>「好きなことをやるっていうのは、身勝手で無責任で、まあ実際そうなんですけど、でも同時に<strong>チャレンジ</strong>なんですよ。「周囲の期待に応えない」っていうのはすごいチャレンジなんですよ。そうは言ってるけどでも違いますよね。いつかは応えるんですよ。ただその応え方が、あなたたちの思うようなやり方ではないですよ、っていうことで。だって期待に全く応えなければ、社会生活はできませんから。</p>
<p>「チャレンジすることに意義がある」なんて言葉がありますけど、僕は綺麗事だなと思ってるんですよね。僕の感覚からすると、褒められることがわかってるチャレンジというのは、チャレンジのふりですよ。それはチャレンジだと僕は思わないですね。<strong>チャレンジっていうのは、やってる最中は人に笑われるし、だめだったときには馬鹿にされるし、場合によっちゃあ仕事がなくなるのが、本当のチャレンジなんですよ</strong>。</p>
<p>「なんだよそんなおっかねえもんなのかよチャレンジって」ってね、でも実際そうなんです。おっかないものなんだけど、多かれ少なかれチャレンジってしていかないと、「なんで生きてるんだっけ」って、思うことになる。生きるっていうことは常にそのリスクがあるっていうのを受け入れて、「お前チャレンジしろよ」と言われてやるよりも、自分から「言われる前にこっちからやってやらあ」っていうチャレンジの方が、気持ちがいいし、それで何か成果を残したときっていうのは、孤独とか寂しさとかに耐えた分だけ大きな報酬があると思いますね。みんなをわっと驚かせるような発見だったり、サービスや商品だったりするのだと思います」</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>どうですか。<strong>全く同じことを言ってるな</strong>、って思いますよね。どんな分野であれプロの厳しい世界で生きてきた人間の、これが<strong>辿り着くべき境地</strong>なのだと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして勝負の世界で結果を残してきた人物として真っ先に名前が挙がる<strong>羽生善治</strong>も、また同じことを言っています。これ有名な言葉なんですが出典がどこにも明記されてなくて、僕としては正直出典のわからないものをその人の言葉として紹介するのは非常に気が引けるのですが、文体から察するに本人の文章だと思われます。なので日本に帰ったときに著作を一通りあたってみて出典を探します。もしくはご存知の方がいれば教えてください。</p>
<p><span class="marker-blue"><em>※8/9追記　２００５年の著作『決断力』P.171にありました。当初掲載していたものと文章の並びが微妙に異なっていたので、本書の通りに引用しなおします。太字強調は僕自身によるもので著者によるものではありません。</em></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<div class="blank-box">
<p>「どの世界においても若い人たちが嫌になる気持ちは理解できる。周りの全員が同じことをやろうとしたら、努力が報われる確率は低くなってしまう。今の時代の大変なところだ。</p>
<p><strong>何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。</strong></p>
<p>誰でも、時には落ち込んだり、挫折感を抱いたり、飽きたりもする。特に最近は、他の刺激を受ける機会が多い。誘惑もされやすい。若い人たちが自分を信じ、諦めずに一つのことを続けるのは難しい」</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>人生はポーカーです</strong>。これは冗談ではありません。当たるかどうかわからないところへ自分自身をベット（賭け）していかないといけません。そして芸術もまたポーカーです。歴史というディーラーテーブルの上に自分の人生と作品と思想をオールイン（全賭け）するのが芸術の本質です。僕の人生にももうじきその瞬間がやってくるでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さて本題とは関係ありませんが、イチローの記者会見での最後の質疑応答も大変良いので紹介しましょう。</p>
<p>記者の質問。</p>
<p>「最初のマリナーズ時代、自分は孤独を感じながらプレーしていると仰っていましたが、その後チームが変わって、プレーする役割も変わっていって、そして今はこうして引退となったわけですが、その孤独感というのはずっと感じながらプレーしていたのでしょうか？」</p>
<p>イチローの答え。</p>
<div class="blank-box">
<p>「現在それはまったくないです。今日のこの段階では、まったくないです。それとは少し違うかもしれないんですけど、アメリカに来て、メジャーリーグに来て、…外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは… 外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今まで無かった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり情報をとることができたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので、孤独を感じて、苦しんだこと、多々ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、今は思います。</p>
<p>だから、つらいこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然なんですけど、でもエネルギーのある元気なときにそれに立ち向かっていく、そのことは人として、重要なことなのではないかと感じています」</p>
</div>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>現在留学中の僕にとってこれほど支えになる言葉もないですね。未来の自分より確実に若い今こそが、頂の見えない山へと挑む最大の好機なのだと励まされました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>イチロー選手お疲れ様でした。たくさんの夢と誇りを日本人にもたらしてくれたことを感謝します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-467" src="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume.jpg" alt="" width="960" height="540" srcset="https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume.jpg 960w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume-300x169.jpg 300w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume-768x432.jpg 768w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume-120x68.jpg 120w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume-160x90.jpg 160w, https://algomuze.com/wp-content/uploads/2019/03/ichiume-320x180.jpg 320w" sizes="(max-width: 960px) 100vw, 960px" /></p>
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